ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

日本の謎の古代史 考える時のポイント(1)日本海側から発展、海退と沖積

日本の古代は謎が多い。

特に縄文から弥生へかわる紀元前1000年ごろから、古墳時代が終わり、飛鳥時代を含む紀元後600年ぐらいまでは謎だらけ。

そんな謎の古代史を考える時の私なりのポイントを紹介。

日本海側から発展

司馬遼太郎さんの「菜の花の沖」は、江戸時代の廻船商人、高田屋嘉兵衛(1769-1827)の波乱万丈の人生をテーマにした長編小説。

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司馬さんは菜の花が好きだった。2月12日の命日を菜の花忌という

淡路生まれの嘉兵衛さんは、難波・兵庫(コメ)と蝦夷地・箱館(昆布、ニシン)の海の商人。難所だった国後島(クナシリ)~択捉島(エトロフ)航路を開拓したがロシアに抑留されるという大ピンチ。鎖国破りの罪人にされながら幕府を説得し、日露交渉を有利に導くなど、坂本竜馬の前世はこの人か!?というほどの活躍をした先人だ。

難波・兵庫から瀬戸内海を通り、周防(すおう、山口)を回って、日本海を北海道と往来する北前船(きたまえぶね)が舞台。

司馬さんは江戸期に至るまで海上交通は日本海側から発展したことを力説しておられた。太平洋航路は「エンジン」が登場した明治以降だと。

謎の古代を考える時も同じで、交易によって「日本海側から発展」したことを前提に考えるとよいことが多い。

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古代・日本海側からの発展イメージ(私が考えている主なものを描き出し)

縄文時代の人々は「海の人」と「陸の人」にわかれ、交易によって繋がっていた。

海の人は、日本海・沿岸全域に広がった海の道(ヨコ軸)を、

陸の人は、日本海沿岸から内陸に伸びる川沿いの陸の道(タテ軸)から網の目のように行き来した。

海の道には、日本海側沿岸に多数の「舟どまり」があり、大きなものでは三内丸山(青森)のような暮らしと生業(なりわい)があったと思う。

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陸の道(山道と川筋)に沿っては、小さな集落(ムラ)が多数。新潟から信濃川犀川沿いに松本市まで、信濃川千曲川沿いに上田市まで、また古代諏訪湖周辺に縄文遺跡が分布するのは、その好例かと思う。

縄文の人々は「海の道」「陸の道」を利用して、移動と定住、交流交易を積極的にしていた人達だったと思う。陸の男と海の男を兼ねた者がいたかも知れない。

太平洋側でも渥美半島の縄文海人が、房総半島と紀伊半島を繋いでいたと思われるが、日本海側ほどの多数の集団、規模ではなかった。

「海退」と「沖積平野

ポイントのもうひとつは「縄文の海進」とその後の「海退(縄文晩期~弥生期)」。

海が深くなり、後に浅くなった地球規模の現象だ。

わかりにくい場合、上の地図でもよいし、どこでもよいのでグーグルの衛星写真地図を見ていただきたい。

緑の部分は山や丘。白っぽいところが平野で縄文時代には「海」だったと想像してみる。

海が退いて地上に現れた海底に、川の土砂が堆積して平野がつくられた(沖積平野

海は縄文時代のピークより5~6メートル低くなって海岸線が平均で5キロ遠くなり、

沖積平野ができてさらに遠くなり、地域によって元の海岸線から10キロ前後、関東では数十キロ以上遠くなった。

そして新しくできた平野が水田地帯になった。

もし、海退と沖積平野がなければ、稲作の弥生時代(紀元前1000年ごろ~紀元後200年)はなかったし、日本が今のように発展することもなかったと思う。

逆に、もし、また海が深くなれば、列島の大都市や周辺の水田はひとたまりもないことを古地理は教えてくれる。

今はグーグルがあるので、古代の海岸線、古い神社や古墳の位置や関係を考える時は、まずは衛星写真地図を見ればよい。

慣れてくると地震液状化津波被害の予想、避難路を考える際にも役に立つので、地域のハザードマップと合わせて、一度見て考えておくのもよいと思う。(お子さんのおられる方は夏休みの課題にいかがですか)

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