はじめに
十三湖はアイヌ語のトーサム(湖のほとり)が語源という説。真偽不明ですが縄文時代から恵みの水辺。北海道と交易した #円筒土器 文化は #亀ヶ岡 に繋がります。中世には #安藤氏 #安東水軍 が跋扈
目次
本文
前回の続き。
Beatles「Let It Be」
相内神明宮(アマテラス大神)の狛犬さんが気に入っていただけたようなのでサービスショット。笑
心の赴くまま(Let It Be)につくりましたので特に意味はございません。よかったらBGMにどうぞ。
When I find myself in times of trouble , Mother Mary comes to me , Speaking words of wisdom, let it be
悩み困っているとき(聖母)マリア様がやってきてボクにこういうんだよ。。。Let It be...
相内神明宮の奥に広い空間(史跡公園)があり、ここが縄文時代(前期・中期)のオセドウ貝塚です。
大正10年(1921)に発見され、その2年後、相内村を中心にした史跡研究会の人たちによって壮年男子の縄文人骨が発見されました。
さらに2年後(1925)に東北大学の長谷部・山内博士が発掘を行い、昭和2年(1927)の研究成果の発表の中で、オセドウ貝塚で発掘した土器を「円筒土器」と命名しました。
長いバケツ型の円筒土器は縄文前期(約6000年前)を端緒とする様式で、ヒスイの流通とともに、縄文時代(前期・中期)の東北~北海道の 海の交易 の根拠となるものです。
津軽安藤氏・安東水軍のこと
昨日の記事でも少し書きましたが、津軽安藤氏の消息が歴史に上がって来るのは鎌倉時代。本姓は安部氏。(室町時代に安東氏、戦国時代に秋田氏を名乗る)
その始まりは不明ですが、鎌倉時代には十三湖で発展した一大港湾都市・十三湊(とさみなと) を拠点とした 安東水軍 の本態です。
安藤氏が奉じたのがアラハバキ(荒吐)神 とされ、十三湖の北の相内の丘に、福島城とともに、前身となる社を建立したというところから、相内神明宮がアラハバキ神社と呼ばれる理由と考えられています。
(もしそうであるなら十三湖に南面しているのは何かの手掛かりになりそうです)
安藤氏の居館とされる福島城跡は、相内神明宮から県道を東に、車で数分のところ。史跡に渡る橋がかなり腐食していて、城内(草地)まで入れませんでした。
十三湊(とさみなと)はなぜか日本史から消えていますが、五所川原市十三(じゅうさん)にある十三湊遺跡は国史跡で、その指定に至る考古学調査の結果、 中世には西日本の博多や堺に匹敵する国際港湾都市(東北~北海道の交易から、大陸・半島・オホーツク・シベリアに及ぶ)であったと考えられています。
その地勢的な背景を把握するため、簡単な地図をつくりました。
写真左)津軽半島と津軽平野。北の十三湖と南の岩木山を岩木川が繋ぐ。つまり弥生の海退期(紀元前~後)以降、岩木川が津軽平野を形成
写真中)現在の標高を色別表示(開物作成)現在の標高から考えて津軽平野は紀元前後から古墳時代(西暦400年ごろ)までの間に、青色の水域(古十三湖)から浅い水域〜潟に、そして水田稲作の平野に急速変化。
安東水軍のころ(鎌倉時代)は、現在のほぼ十三湖周辺と日本海が活動エリア。
ちなみに、地図の中心「+」マーク(七里長浜の陸側、水域の浮島のようなところ)は遮光器土偶(シャコちゃん)で有名な 亀ヶ岡遺跡。地図から 亀ヶ岡遺跡に住んでいたのは海の縄文の人々 であったことが推理されます。もしかしたら後の安藤氏(安東水軍)のご先祖さまだったかも知れませんね。
安藤氏は「俘囚の長」として、朝廷に恭順した蝦夷の一族(安倍氏)の血統。実力(軍事力)があり、平安時代以降、陸奥国の統治を任されていました。
(宗家の安倍貞任は平安期に滅ぶものの、子供が津軽に移住し、後に繁栄したのが安藤氏という説がほぼ定説か。一方、宗家の血統は平泉の奥州藤原氏に繋がる。)
個人的には、今よりもはるかに広大な 古十三湖一帯 で活動していた縄文の人々が安倍・安藤氏の祖先であるならば、彼らは、ヤマトから「まつろわぬ人々」という意味で 蝦夷(えみし) と呼ばれた人々の源流であったと妄想しています。