青森市内から車で一時間少し。#十三湖 の北の丘の #相内神明宮(#アラハバキ神社)を再訪。ねじれのある鳥居の笠木、参道の樹の #藁蛇 。境内地は縄文前〜中期 #オセドウ貝塚 #円筒土器 が出土した遺跡としても知られています #長髄彦
目次
本文
相内神明宮(アラハバキ神社)
一昨年に続き、二回目の参拝。
(41.0502376, 140.3604182)/青森県五所川原市相内露草190/鳥居前に駐車スペースあり
境内地は十三湖北畔の丘陵で、縄文時代の オセドウ貝塚(史跡)でもあります。
「笠木にねじりのある樹の鳥居」があらわすもの
神明宮の名はお伊勢さん(アマテラス大神)の社であることを意味し、鳥居は神明造り。
今回、あらためて見たかったのが、この鳥居。
笠木にねじれのある樹が使われています。
このような 螺旋木理(らせんもくり)にこだわった鳥居は他に見たことがありません。
当ブログで時々紹介する出雲伝承(古代出雲王国の富家伝承)の関連本(サルタ彦大神と竜、大元出版、195ページ)には、
この 絡み模様 は、雌雄二匹のヘビが交尾する様子をあらわし、
古代出雲(弥生時代)では神聖なもの、邪を祓う表象として崇められていたと紹介されています。
出雲の 龍蛇信仰 が、日本海で津軽と繋がっていたこん跡なら、たいへん貴重なものです。
オセドウ貝塚(縄文前期〜中期)
「於瀬洞」と書き「御伊勢堂(神明宮)」が訛ったという説もありますが、詳しくはわかりません。
大正時代に、地元(市浦)有志の発掘で、2メートル近くの体躯の全身遺骨*1が出たこところから、ヤマトから逃れたナガスネヒコ(長髄彦、長い脛≒背が高い*2)の墓の話に繋がり、
神武東征で敗れた古ヤマトのナガスネヒコが逃れてエミシの王国を築いたというストーリーを伝える東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし、今では話の大半が創作されたと考えられている)の信憑性論争を巻き起こしました。
一方、縄文前期〜中期の貝塚にともない、北海道南部(渡島、おしま)から能登半島北部に至る広域文化・交易圏の証拠ともなる円筒土器(えんとうどき)が発掘され、
その様式や年代を確定する標準設定のための重要遺跡として考古学の世界では知られています。
東日流外三郡誌について
私も偽書部分が多いと考える東日流外三郡誌には「津軽を含む東北北部は、かつての「日本国、ひのもとのくに」の中心だった」という、一見、荒唐無稽な話が展開しますが、
円筒土器の分布と広がりを見る限り、縄文時代のある時期(海進期。現代よりも暖かく海が深い時代)以降、津軽は列島の古い時代の大文化圏の中心のひとつであったと考えてもおかしくありません。
中世には十三湊を拠点に安東氏が栄えた歴史があり、この安東氏*3が、ナガスネヒコの子孫*4であると東日流外三郡誌は伝えるのです。
現在の(北部)五所川原市*5の旧市浦一帯には十三湊遺跡、福島城跡、山王坊遺跡など、安東氏の史跡が多数あり、相内神明宮はその氏神(アラハバキを崇拝)であったとも云われています。
このあたりが、同書が百パーセント偽書とは言い切れないところでもあるのです。
(日本国の呼称について、興味のある方は「つぼのいしぶみ」でググッでみてください。こちらも謎の多い話ですが…😅)