はじめに
弥生の水田稲作はすばやく #津軽平野 にまで伝播した。考古学的定説ですが、では、いつ・だれが・なぜ・何のために伝えたのでしょうか。考察(古代妄想)の後半です。弥生前期末の #砂沢遺跡 弥生中期後半の #垂柳遺跡 #出雲文化 #クニビキ神話
目次
本文
前回(11月24日)からの続きです。
出雲と津軽の繋がり
以前、国立遺伝学研究所の斎藤茂也先生の核DNA解析*1で「出雲と東北地方の類似性」に関する研究成果を紹介したことがあります。
出雲地方と津軽地方の方言の類似性を謎解きのプロットにした松本清張さんの『砂の器』(1960-1961)は、後年の斎藤先生の研究成果を、言葉の側面から、予想していたように思います。
いつ、だれが、なぜ、何のために(後半)★★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
● (いつ) 前回紹介した砂沢遺跡で、日本最北・東日本最古の水田が営まれたのは『弥生前期末』ですから、紀元前300年~200年の間ということになります
● (だれが) 津軽と出雲の(遺伝的と言葉の)関係を前提にしますと、時期的に考えても、津軽に水田稲作をもたらしたのは、出雲族 というのが最も考えられます(出雲王権と称しても、よいかも知れません)
砂沢遺跡では北九州の遠賀川系の様式に似た土器が出土しており、また、板付遺跡(福岡空港の近く)で栽培されたコメに近い品種が出土したことから、津軽にやって来たのは『北九州のグループ』と書きましたが、なぜ出雲族なのでしょうか。
なぜ出雲族なのか?
そのように推理する理由は大きく2つあります。
1)古事記上巻(神代)に『大国主命が胸形奥津宮の神多紀理比売命(かむたきりひめのみこと)を娶(めと)る』をいう記述がありますが、古いムナカタの国(現在の福岡県宗像市、宗像大社が鎮座するところ)は出雲の都市国家群のひとつで、王族クラスの姻戚関係がある有力なクニでした
2)ムナカタは、地政学的に出雲の外交機能として、大陸の文化・技術を取り入れ、融合し発展させました。そのひとつに水田稲作(種子、道具)があったと考えられます
なぜ津軽に水田稲作を伝えようとしたのか?
出雲の最盛期は、日本海沿岸からクニを大きくしてゆくこと(大国、オオクニをつくること)が目的でした。
この時期は(縄文時代の海進ピークから海抜が5~6メートル下がった)海退期で、あらわれた海底に河川の土砂が沖積し、有明海のような汽水域から、淡水の湿地帯(芦原)になり、さらに人が住める平野が広がるダイナミックな時代でした。
地域差はありますが、日本海側では丘陵・山麓から5~10キロの幅で平野が沖積しました。
かつて沖合の島だったところが平野でつながる自然現象。これが『クニビキ神話』を生んだのです。
縄文時代に丘陵・高台に住んでいた人々が、新しい平野で生活するには水と食料が必要ですが、水路を引いて管理し、食料を増産する水田稲作はベストな解決策でした。
砂沢を継承する垂柳の弥生水田656面
前回も書きましたが、砂沢遺跡での稲作は12年ほどで終了します。
縄文的生活に親しんだ人々の支持を得られなかった、たとえば、サケ漁で食料を確保できたなど、ほかには岩木山の噴火降灰の影響など、諸説ありますが、短期間で終了したのは、おそらくやや寒冷化(現代並みの気候化、海退と連動)にともない、津軽の緯度では、熱帯原種に近い品種だと、思うような収穫が得られなかったのでしょう。
砂沢の南東約20キロ、弘前市の北東部に垂柳遺跡(南津軽郡田舎館村垂柳)があります(今回は見学に行けてません)
1982~83年の発掘調査で、砂沢遺跡よりも100年余り後の『弥生中期後半』の、『畔、あぜ』で区画された大規模な656面もの水田跡が見つかりました。
わずか百年後には、畔のある、つまり、灌漑水路の設けられた新方式の水田が開発・運営されていたのです。
栽培されていた品種は、砂沢のものとは違い、津軽の気候により適したものだったから大規模化したのでしょう。
現代の取り組みと変わらない 品種改良 も含めた水田稲作に対する取り組み。
あなどるなかれ 弥生時代のものづくり文化 です。
(このテーマは蝦夷文化にも関連します。引き続きリサーチし、取り上げてゆきたいと思います)