ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

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お岩木山の麓 縄文から弥生 津軽と北九州 繋がりのこん跡【砂沢溜池・砂沢遺跡】

はじめに

岩木山の夕景が美しい #砂沢溜池。 #砂沢遺跡 の案内板には #津軽の弥生稲作 の始まりが書かれていました。炭化米から、北九州 #板付遺跡 のものと似た #熱帯ジャポニカ の栽培が推定されています #遠賀川系土器

目次

本文

岩木山北東部一帯の湧水群

津軽・お岩木山の北東部、山麓から平野に向かう斜面一帯には大きな池がたくさんあります。

一帯で最大のものは廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)で、その南に今日、紹介する砂沢溜池(すなざわためいけ)があります。

いずれも溜池(ためいけ)と云われ、津軽藩政の時代、水田灌漑用に開発されたものだそうですが、山麓の丘陵地形や縄文遺跡の位置との関連性からみて、この地域にはもともと、多くの人口を養えるほどの湧き水地帯があったことがわかります。

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砂沢溜池(青森県弘前市)の位置

たとえば、11月17日・20日に紹介した森田歴史民俗資料館はその西、約1キロにある狄ヶ館溜池(えぞがだてためいけ)近くの縄文・石神遺跡からの出土品を展示しています。

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石神遺跡想像模型 狄ヶ館溜池・水辺の石神遺跡(森田歴史民俗資料館)

砂沢溜池

縄文・大森勝山遺跡を見学した後、岩木山の夕陽を眺めようと訪れたのが砂沢溜池。

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砂沢溜池から岩木山(2020年10月13日)

えん堤が道路になっている大きな溜池ですが、道沿いに、興味深い内容が書かれた案内板を見つけました(案内板の写真と文字起こしは記事末)

砂沢遺跡

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約30年前の昭和から平成にかわるころ、砂沢遺跡が発見されました。この遺跡は、冬~夏にかけて水の底、夏~秋の短い期間だけ地上にあらわれるそうです。

地下水脈の流量によって年間を通じて水位が変わる、火山山麓の湧水地、いわゆる古代から「龍穴」といわれた日本のオアシスの特徴そのもの。

*****

弥生の水田遺跡が溜池の底から見つかるのは、唐古・鍵遺跡(奈良県)も同じ。平野に近い低湿地帯の斜面を利用して稲作をしていたことから、水辺や浅い水底で見つかることが多いのでしょう。

砂沢遺跡の特徴(案内板ポイント)

遺跡からは約4千年~5千年前の縄文後期の住居跡の他、紀元前後の弥生中~後期の水田跡が見つかっています。

● 弥生時代の水田跡としては日本最北、東日本最古

● 水田土壌から出土した炭化米の分析で、熱帯型ジャポニカ種の特徴が見いだされ、

● なんと!福岡県板付遺跡弥生時代後期)に近い品種であること

● 出土した土器(形)の中に、弥生期の北九州稲作の人々が使っていた「遠賀川系土器」にソックリなものがあること

● 一方で多数の石のやじり(石鏃)も発見されており、全体として弥生的な米づくりと縄文的な狩猟採集のライフスタイルが混在していること

● しかし水田では、推定12年間という短期間の稲作が行われたに過ぎなかったこと

など。。。目の前には広い水面と美しい岩木山。たった一枚の案内板だけの「遺跡」ですが、古代妄想(ロマン)が限りなく広がる内容です。

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長くなりましたので、もう少し続きを書きたいと思います(次回11月24日ごろ)

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縄文~弥生・砂沢遺跡の案内板(文字起こし)

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縄文~弥生・砂沢遺跡の案内板

砂沢遺跡は青森県弥生時代を代表する遺跡で、この砂沢溜池から名づけられました。位置は溜池の南側(左手)、岩木山から延びる舌状の低台地の末端、標高17mにあって、冬から夏にかけては水の底に眠り、夏から秋にかけて現れる特異な環境にあります弘前市教育委員会が昭和59年度~63年度まで発掘調査した結果、弥生時代前期(砂沢期)の水田跡、土坑、溝、縄文時代後期(約4000~5000年前)の住居跡などが発見されました。(弥生の)水田跡は6枚確認され、今から2200年~2100年前のもので東日本最古とされ、また弥生時代の水田跡としては日本最北といえます。形はほぼ長方形をなし、大きさは全体がわかるもので約70と80平方メートル、畔(あぜ)の高さは約15センチで、地形に沿って南から北へ段々低くつくられています。また、水田の土壌からは、炭化した米などが検出されました。これらを分析した結果、弥生時代の水田跡にみられる熱帯型ジャポニカの特徴が観察されたこと、推定12年間という短期間の耕作であったこと、さらに炭化米の比較からは田舎館村垂柳遺跡(弥生時代中期)の形よりも福岡県板付遺跡弥生時代後期)により近いことが解明されました。これにより、大陸から北九州へ伝わった米づくりは、かなり早い時期でしかも海伝いにこの津軽の地に伝播したと考えることができます。出土遺物はリンゴコンテナで約430箱分、約1.8トン発見されました。その多くは砂沢式土器と呼ばれる弥生時代前期の本県を代表する土器形式で、変形工字文を施しています。器形は、浅鉢・台付浅鉢・鉢・深鉢・壺などで、この中には、遠賀川系土器と呼ばれる北九州で稲作をしていた人々が使った土器にそっくりな土器も出土しており、米づくりの技術と一緒に土器のつくり方も伝わったことを教えてくれます。その他では、蓋や土偶、土板、管玉などたくさん出土しました。中でも石鏃(せきぞく、石のやじり)が約200点出土しており、米づくりを行っていたものの、まだまだ狩猟採集に頼り、試行錯誤で農耕を営んでいたことが伺われます。(平成3年3月31日)

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