たいへん面白いツイート(yurinさん)に出会ったので掲載。
おもわずその通り!と膝を打って(イテテ!)ついついリツイート。
著者の斎藤茂也先生について。
www.saitou-naruya-laboratory.org
一昨年ぐらいだったか、このブログを始める前、出雲と津軽地方の現代人の核ゲノム解析を通して、共通遺伝子を探るという主旨の研究が行なわれていることを知り、結果を楽しみにしていたが、著作として発表されたようだ。
核ゲノムは「全遺伝子解析」のことで、母系のミトコンドリアDNAと違い、父系も含む広範囲な、かつ、精度の高いゲノムの解析ができる技術だ。
遺跡から発掘される場合、保存状態がよい頭骨の奥歯(大臼歯)、その髄の中からようやく抽出されるもので、大規模件数調査というわけには行かない(下記の記事前半・神澤秀明さん)
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以下備忘録。あまりまとまってない(またリライトします)
出雲と津軽では方言や発音が似ているということで言語学的に共通性が指摘されており、その点を謎解きのキーとして松本清張さんが名作「砂の器」を描いたのは有名な話だ。
斎藤先生の研究成果は、清張さんの「感性」が正しかったことを証明している。
あらためて、著作の「核DNA解析でたどる 日本人の源流」と読んでみようと思う。
出雲と津軽を結ぶ点と線を繋いでみる(古代妄想★★★)
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
唐突だが、私の古代妄想、中でも特大のヤツを書いておこうと思う。
当ブログを読んでいただいている方に「この人、アチコチ話を飛ばしてややこしい」と思われているかも知れないので、大きな筋立てのところ。
● 出雲と津軽の関係性はご理解いただけたかと思う。この点は清張さんの勘から始まった。
それはなぜ、どのようにして、が以下。
● 出雲(族)は北方から日本海沿いに南下してきた(北方の前にどこにいて何を目的にやって来たのかは、深く長い考察と確認が必要なので、また今度。北海道や樺太ではない)
● 開物妄想:津軽到達が紀元前1000年ごろ。出雲到達が紀元前800年ごろ(もっと早く浸透していたかも知れない)
● 北から南、南から北への主に海上移動と、途中の拠点からの陸路での内陸(太平洋側)への浸透には、先住の縄文の人々との平和的習合が大前提になる
● なぜなら出雲族はしょせん圧倒的少数。難所があり 超人的な 体力・技術が求められる海路、「やちまた」に分かれた陸路を熟知し、森の中に散在している縄文の人々に戦争や征服行為で勝ち切れるわけがない(ベトナム戦争でゲリラ戦に敗れた最新兵器のアメリカを考えればよい)
● 出雲族は出雲地方に落ち着いて王国(ギリシアの都市国家的なレベル)を形成。日本海側から都市国家群を形成。北九州のムナカタ、近畿のヤマシロ(山背)、信州のスワ周辺などは、それらの中のひとつと思われる(クニビキの国土開発)
● ツガルは出雲中心から辺縁系で、南北海道(ワタリジマ)地域とあわせて独自の文化圏を形成した
この後、紀元前300年ごろ、物部氏の祖先が列島に上陸(出雲地方か北九州。このあたりも特命リサーチ予定)
以降、物部勢力(クニウミの国土開発)の移動(東進)とともに、ヤマト地方に日本史の中心が移ってゆき(弥生時代後期~)
やがてヤマトを中心とした歴史が始まる(~古墳時代初期)
このシナリオと「前方後円墳はモノノベ式」を想定すると、前期古墳の「空白域」が浮かび上がってくる。
ヤマト物部勢力がこの時期、浸透できなかったところ。
出雲・縄文勢力が強かった中部~南東北の山岳地帯、津軽を中心にした遮光器土偶の文化圏だ。
その後の「まつろわぬ者」勢力のエリアとも重なっている。
図に描画していないが、九州南部も同じ状況だっただろう。
紀伊半島中央、中国・四国の山岳地帯などもそうだ。ただ西日本のこれらの地域は、上記の他のエリアに比べて早くからヤマト物部勢力圏へと移行した(訂正1025)
日本の古代史は、西日本と中央~東~北日本ごとに時間差が生じ、特に弥生から縄文への移行(画期)の考察には注意が必要だ。