はじめに
北九州・弥生式の水田稲作ノウハウが弥生期の #津軽 #砂沢遺跡 に。北九州 #遠賀川式 によく似た土器も発見されています。いつ、だれが、なぜ、何のために持ち込んだのでしょうか。#岩木山 #岩木川 の変化、気候変化、#海進と海退 による海抜変化も考慮して古代妄想。前半
目次
本文
前回記事(2020年11月22日)より
津軽・お岩木山の北東部一帯の湧水群に、たくさんの縄文遺跡が残されている中、砂沢溜池の砂沢遺跡では、約4千年~5千年前の縄文住居跡とともに、紀元前後(弥生時代・中~後期)の水田跡(日本最北、東日本最古)が見つかりました(1984~1987年調査)。
低湿地帯に、段々に「水利を考慮して」つくられた水田跡(6枚)で、出土した炭化米の分析で、福岡県の板付遺跡(弥生時代後期)に近い品種であることが判明しただけでなく、北九州稲作の人々が使っていた「遠賀川系」様式に似た土器も見つかっています。
弥生の水田跡という「点」をつなぐ北九州と津軽の「線」
総合的に考えるため、少し長いスパンで岩木山一帯の自然環境(気候・縄文海進と弥生海退を含む)を整理してみました。
津軽や青森の縄文から弥生期を考えるのに、気候と海抜変化、そして、岩木山(成層火山。現在も休火山ではない)の活動を考える必要があります。
● 地球レベルの海抜の変化は、北極と南極の氷の量で説明できます。海進期は極地の氷が溶けるほど温暖で海抜が上昇。海退期はその反対
● (12500年前にウルム氷河期が終了してから7千年間、一貫して海抜が上昇しました。縄文大海進)
● 日本列島は大陸と違い、海抜の変化の影響をモロにうけます。海が深かった暖かな時代に、クリの農耕的管理栽培がおこなわれ、海に近かった縄文の港町・三内丸山(現在の青森市)が栄えました
● しかし、その後、海退と寒冷化が進み(現在の気候水準になり)三内丸山の緯度でのクリ栽培が困難になり、海が遠くなってしまった港町は打ち捨てられ、青森市の平野の後背地(ヒンターランド)丘陵の遺跡になりました(約三千年前)
● 代わって、海退と寒冷化による気候変化で、岩木川の流量が増え土砂堆積が活発になり、中流~下流(弘前市から北西方向~亀ヶ岡遺跡~十三湖)では沖積化が進み、縄文以来の人々は(噴火の危険がある岩木山より遠い)、水の豊富な川の近くの低地(湿地帯)に下りてきて、生活を始めます
● 遮光器土偶の亀ヶ岡(つがる市)は、この経過で生まれた集落遺跡です(紀元前1,000年~紀元前300年頃の低湿地を伴う集落遺跡)
いつ、だれが、なぜ、何のために(前半)★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
北九州で生まれた弥生期の水田稲作ノウハウが含まれた当時最新のものでしたが、砂沢での操業がたった12年で終了している点にも注目です。
● (だれが)そして弥生のころ、北九州あるいは近くの西日本からやってきたグループが、砂沢で弥生式水田を始めました
● (いつ)日本海ネットワーク(海路)でやってきたことが最もあり得ます。したがって数年・数十年・数百年ではない、短期間での伝播の可能性があります
● (なぜ)しかし北九州の緯度(気温)では成功した熱帯ジャポニカ種での水田式稲作も(現代並みに)寒冷化する津軽では思うような収穫が得られず、短期間で終了した、
というのが、私の古代妄想シナリオです。では、彼らは『何のために』津軽までやって来たのでしょうか。
古代妄想は続きます。(次回11月26日以降で未定★★★)