前回からの続き。
遺跡広場を歩いた後、さんまるミュージアムの館内を見学。
(HPより)三内丸山遺跡から出土した重要文化財約500点、総数で約1,700点の遺物が展示されています 重要文化財の「大型板状土偶」をはじめ、「ヒスイ製大珠」「クリの大型木柱」などを展示しています
お目当てのジオラマで、縄文時代の海岸線と大型掘立柱との位置関係を確認。
海沿いの丘に建てられている
このブログを何回かご覧いただいた方なら、何を調べているか、分かりますよね。
莫大なエネルギーを投入して、大型の構造物(モノ)を「そこ」に建てたムラの人々の目的(コト)
それは。
航路を照らす灯台・天候を測り知らせるのろし場
その配置関係から、海からやってくる人に目標を示し、迎えるワンセットの建物群に違いない。
では海からやってくる人とは誰か?
縄文の海人(かいじん)だ
丸木のくり舟で津々浦々を巡り、北のモノを南に、南のモノを北に運ぶことを生業(なりわい)とした縄文のセールスマンだ。
日本海側の縄文遺跡から、糸魚川のメノウ(碧玉、緑石)の穴開きアクセサリーや南国の貝輪など、北海道から南西諸島の広範囲にわたって出土する。
北海道の黒曜石がアムール川(黒竜江)の源流、バイカル湖地域で出土した例もある。バイカル湖周辺はブリヤート古代商人の拠点だ。
世界と繋がるくり舟の日本海大交易圏
このような広範囲なモノの点在は、縄文海人のネットワーク、流通パワーを抜きにして説明することはできない。
マクロ的に、縄文海人は列島日本海を舞台に、黒潮文化圏、オホーツク文化圏を繋ぐ存在であった。
アラスカ圏との繋がりも近年の北米遺跡研究(オレゴン州)でクローズアップされてきた。
*****
縄文海進時 最も栄えた時期の三内丸山。広大な海または潟の中に浮かぶ台地だった可能性もある。
もしそうならば青森湾と日本海を直結する拠点としても考えることができる。
話を日本海に絞る。
日本海のハイウェイには、列島沿岸に数えきれないほどの中継の舟泊りがあり、三内丸山はその中でも大型のひとつだっただろう。
なぜなら、ここは本州と北海道以北を結ぶ幹線、本州側のパーキングエリアだ。
青森湾を抜ければ、往路であれ、復路であれ、航海(津軽海峡)は長丁場。
しかも一気に漕ぎ抜かなければならない。
北海道に向かう人はここで英気を養い、渡ってきた人はここで一休み。
一匹狼もいただろうが、多くがグループ、集団だっただろう。
その方が取り扱い量が増えるし、安全。
大型竪穴住居は海の男たちの「宿場」だ
完全個室、バスシャワー付きというわけにはいかないが、屋根がある分、高級だ。
もちろん、ムラ人のもてなしもあっただろう。
名物はクリ料理。魚料理、ジビエ料理。果実酒もあっただろう。
丸木舟の修理(タール出土)やレンタル(日本海側への乗り換え)。。。想像が膨らむ。
展示物を見ながらニヤニヤしていたおじさん、それは私だ。
こんな記事があります。消えてなかったら読めます。
記事中「玄界灘の集団」とは、やがて、宗像海人(弥生時代)と呼ばれる男たちの先祖のことですね
渥美半島の集団は紀伊半島と房総半島を繋いでいたのではないだろうか。古神社・鹿島神宮には「熊野社」があり、説明板には古代の繋がりのことが書かれていた。
(三回シリーズ)