(注意)本記事は考古学の時代画期が難しい東北・北海道の内容のため、各地元の表現に沿って記述しています。例)亀ケ岡石器時代遺跡など。考古学の(新旧)画期の定説は本州中央・九州・四国のもので、沖縄、東北・北海道には、それぞれ独自の画期があります
大迫力「シャコちゃんが出迎える」五能線・木造駅(きづくり、青森県つがる市)。
遮光器土偶が発掘された「亀ヶ岡遺跡」の最寄り駅。
Wikiによると、地元では「シャコちゃん」と呼ばれ、以前は列車の発着に合わせて土偶の目が点滅していた(いらっしゃいビーム)が「子供が怖がる」などの理由で、現在は自粛しているらしい(怖がるんでない。子どもたちよ!)
(写真はお盆に東北旅行した知人の提供)
世界最高水準の海人文化 縄文~弥生期の北東北・南北海道
縄文から弥生へ移行する時代について、主に北部九州から西日本~ヤマトへの東遷で考察されることが多いし私もそうだ。しかしその前に、気になるのが東北~南北海道エリア。
三内丸山は、六千年~四千年前の縄文時代のムラ(都市?)で、北部九州に稲作の環壕集落ができる(はやくて三千年前)よりも、はるか以前に栄えた。
前に、三内丸山遺跡のことを紹介したが、列島日本海の交易網の一大拠点と考えられ、巨大木造技術を持ち、世界の考古学の常識を破る「狩猟 & 農耕定住」で生活していた人々。
今よりも地球が暖かな時代、私たちのご先祖様は、東北~北海道南部で、たいへん豊かな文明生活を送っていた。
そして巨大建築物を建造する技術は、おそらく弥生の建築(稲倉、高倉→神社建築)に継承され、
信仰(祭祀と墓)と廃棄が渾然とした「盛り土」は「貝塚」を経て、弥生以降の「墳墓」「古墳」になった、と想像している。
高度文化のその後を考えてみる。亀ケ岡・十腰内文化(1)
「亀ケ岡・十腰内(とこしない)文化」という考え方があり、わかりやすいよう、各遺跡の位置と主な出土品を、三内丸山遺跡とともに描いてみた。
三内丸山は地球規模の寒冷化で、その緯度帯でのクリ栽培が難しくなり、海退現象とともに海が遠くなり、海人拠点という本来の機能がなくなり、棄てられた。
三内丸山の人々はどこに行ったのか?
続きます。→ 高度文化のその後を考えてみる(2)
北海道・北東北の縄文遺跡群
北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道、青森、岩手、秋田の4道県・18遺跡エリアで構成される。
2019年7月、国の文化審議会が、2021年夏の登録を目指す日本の候補として選定した。今後は閣議での了解を経て、2020年2月に政府の推薦書が提出される運びとなった。
2002年の提唱、2007年の4道県での推進確認、2009年暫定リスト掲載、という長い取り組みを経て(Wikiより)ようやく推薦を獲得した
これを機会に、未解明なことが多いこの地域の考古学が飛躍的に発展し、新たな視点での日本の成立史が明らかになることを大いに期待している。