ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

三内丸山 の検索結果:

【井戸尻考古館】躍動する在野の考古学精神の系譜

はじめに 八ヶ岳南麓 #井戸尻考古館。初見学で驚かされたのが縄文中期の文化に対するユニークな考察と説明。その根底には世代を超えて紡がれてきた在野の考古学精神があると思われます #藤森栄一 #武藤雄六 #森本六爾 目次 井戸尻考古館の面白さ 在野の考古学の系譜 現館長・小松隆史さん 本文 井戸尻考古館の面白さ 先日、半人半蛙文 有孔鍔付土器(はんじんはんあもんゆうこうつばつきどき、藤内遺跡/縄文時代中期中葉(藤内Ⅰ式))を紹介したのは、 www.zero-position.co…

【阿久遺跡①】諏訪 八ヶ岳山麓の縄文の定住農耕と祭祀文化のこん跡【大型の集会所建物跡】

…跡も #真脇遺跡 #三内丸山遺跡 目次 阿求遺跡(あきゅういせき)から八ヶ岳の眺め 阿久遺跡 高床式倉庫跡と集会所的な大型建物跡 本文 阿求遺跡(あきゅういせき)から八ヶ岳の眺め 阿久遺跡の位置(赤いラインは原村。黄色いラインは下の遠望写真の稜線) 今回の諏訪行きまで、八ヶ岳という山があると思い込んでました。連峰の総称だったんですね😅 八ヶ岳の「八」は「たくさんある、たくさん連なる」という程の意味でしょうか。 阿久遺跡収蔵庫から蓼科山(左)〜八ヶ岳(連峰)稜線 阿久遺跡 高床…

黒曜石やキラキラ土器に触れる資料館【厚真町軽舞遺跡調査整理事務所】

…の交易のこん跡であり、厚真軽舞はそのセンター(のひとつ)だったことを示しています。 現代よりも(世界中の)海水面が5メートル近く高かった縄文大海進の時代、厚真は北海道島の南端の海辺の高台にありました。 (…青森の三内丸山遺跡も海に近い高台にありました。) 縄文海進時代の海岸線と厚真 海辺の高台集落という利点から、渡島(函館など)方面や、あるいは本州との交易の拠点であったのかも知れませんね。 www.zero-position.com www.zero-position.com

【祝】北海道・北東北の縄文遺跡群 登録勧告【世界文化遺産】

…諮問機関イコモスが、三内丸山遺跡など17遺跡で構成する北海道・北東北の縄文遺跡群を世界文化遺産に登録するよう勧告したというニュース 目次 北海道・北東北の縄文遺跡群(カテゴリー) 津軽・お岩木山(カテゴリー) アラハバキ解 第52章公開 アラハバキ解(9)四天王寺と太陽祭祀 本文 RINGOMUSUME(りんご娘)・青森限定ですが、よかったらBGMに。(初期音量にご注意) www.youtube.com 縄文文化は、世界の古代文明の進化の理論にはあてはまらない。。。農耕に移行…

貴(アテ)の深く青き森の文化 阿弖流為(アテルイ)と「貴」の話★★★

…ます。 実際、縄文の三内丸山遺跡(青森市)のクリの管理栽培(果樹園としてのクリの利用)は考古学的に証明されています。 これらの話(点)をつなげてゆくと、道南の渡嶋から青森・岩手・秋田、そして海路を経て能登を包含する円筒土器文化は、農産知識と技術を蓄積し、海の交易圏を持つ高度でダイナミックな文化圏だった と考えられます。 阿弖流為(アテルイ)の話 縄文からはるか時代が下って、律令国家の時代。 平城京跡 朱雀門 蝦夷(えみし)の首長、阿弖流為(アテルイ) *1。高橋克彦さんの『炎…

北海道・礼文島の遺跡で出土したブタの骨のDNA 国産か?外国産か?

…縄文ダイズ・アズキ、三内丸山のクリ栽培など。縄文集落には #ドメスティケーション(#飼い慣らし)が定着していました。イノシシは飼い慣らしでブタ化するといいます。縄文から約千年後、礼文島の #オホーツク文化 遺跡出土のブタの骨。北大でDNA分析中。国産だったら面白いですね 目次 津軽・イノシシデザインの土器・土製品 イノシシか?ブタか? 円筒土器がつなぐ真脇と礼文島(北海道庁HPより) アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る(新章公開) 本文 前回のテーマ「ドメスティケーション…

【能登半島の先端 真脇遺跡】四千年というギネス級の長期間、人々が定住していた縄文遺跡

…縄文の港町・青森市の三内丸山遺跡もそうですが、日本海のこういう場所には大型木造構造物が建てられており、そういう意味で、単なる祭祀施設というよりも、こちらから海の遠い所を見晴るかし、また、海上からの目印にもなる実用的な建物だったのではないかと考えています。(大きな丸い木を半分に割って、平たい面の方を外側に向けて円柱状に並べています。そうすることで遠くから目立ちます。 前回の真脇の記事でも紹介しましたが、木材を組み合わせて建てるのに必要な「ほぞ」加工された木材が出土(2015年)…

モノで見える化【古代 津軽の文化圏】交流と交易の歴史【備忘録】

…、道南の赤井川産)が三内丸山遺跡で発見されるなど、津軽海峡を挟んだ交流・交易が見られるようになります。 このことからも、三内丸山遺跡が縄文の港町だったことがわかります。 北海道黒曜石の伝播ルート(北海道庁サイト) ***** 糸魚川のヒスイ加工品(大珠・小珠)が、北日本では、津軽地方を中心に東北北部で集中的に出土しています。 北海道で出土する縄文のヒスイは、津軽地方を経由してもたらされました。 この時代は縄文(海人)の日本海ネットワーク交易ということになります。 縄文時代中・…

【砂沢溜池 弥生式水田遺跡】いつ、だれが、なぜ、何のために(前半)★★【津軽 縄文から弥生への過渡期】

…近かった縄文の港町・三内丸山(現在の青森市)が栄えました ● しかし、その後、海退と寒冷化が進み(現在の気候水準になり)三内丸山の緯度でのクリ栽培が困難になり、海が遠くなってしまった港町は打ち捨てられ、青森市の平野の後背地(ヒンターランド)丘陵の遺跡になりました(約三千年前) ● 代わって、海退と寒冷化による気候変化で、岩木川の流量が増え土砂堆積が活発になり、中流~下流(弘前市から北西方向~亀ヶ岡遺跡~十三湖)では沖積化が進み、縄文以来の人々は(噴火の危険がある岩木山より遠い…

板状土偶も逸品ぞろい【つがる市立森田歴史民俗資料館(2)】縄文の土偶雑考

…偶の展示 石神遺跡・三内丸山遺跡 板状土偶の比較 板状土偶と遮光器土偶 本文 前回は円筒土器を紹介しましたが、今回は土偶(どぐう)(10月14日訪問) つがる市立森田歴史民俗資料館(青森県つがる市森田町森田月見野340−2) www.zero-position.com 森田歴史民俗資料館、板状土偶の展示 たくさんの展示はありませんが、逸品ぞろいです。 森田歴史民俗資料館 土偶の展示(中央) 土器と同じく、土を焼いて造ったものが土偶で、展示品のような平べったいカタチのものは板状…

【大森勝山遺跡】岩木山を眺望 縄文のライフスタイルと『公』の精神【縄文の神社?】

…生活痕が少ない点で、三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡とは少し違う印象です #ストーンサークル #環状列石 目次 大森勝山遺跡(縄文晩期)青森県弘前市 冬至に岩木山山頂に沈む太陽 縄文時代は太陽暦??? 縄文時代の『公』の意識 ウッドサークル(過去記事) 本文 世界遺産認定に向けて動き出している『北海道・北東北の縄文遺跡群』で、青森県は8遺跡を申請しています。 そのうち、2018年に三内丸山遺跡(青森市)、2019年に亀ヶ岡石器時代遺跡(つがる市)、そして今年は、岩木山山麓の大森勝山遺…

津軽 神の宿る岩木山 リンゴの季節 岩木山神社の鳥居

…で青森訪問。一昨年は三内丸山遺跡、去年はシャコちゃん(遮光器土偶)で知られる亀ヶ岡遺跡。 今年はオフをつくりはじめて一泊、津軽の「神の山」岩木山の麓を半周しました。 岩木山 リンゴ農園 午後の西日 津軽はリンゴの季節で実がたくさん。 津軽リンゴ 津軽リンゴ 好物の王林(おうりん)。 津軽リンゴ 岩木山は、津軽の真ん中を流れ、堆積平野をつくった岩木川の源で、石器・縄文以来、人が住み続けてきたふるい土地。 人々は頂からの水が豊富で標高の高い麓に住み始め、岩木川の流れとともに平野に…

日本古代製鉄の謎(2)歴史秘話ヒストリア『ニッポン鉄物語 “奇跡の金属”が列島を変えた』を見て【番組批評・リライト】

…れていたが、なぜか、三内丸山(青森市)の巨大櫓、真脇(石川県能登町)や桜町(富山県小矢部市)などで発見されたホゾのある木組みやウッドサークルなど、日本海の縄文遺跡で多数発見されている、巨大で高度な木造建築技術の事実が無視されている。 つまり「ものづくり日本」も「巨大木造建築」も石器使用の縄文時代にスタートしていることは、今の時代、少し調べればわかることなのに『(おそらく専門家がついているはずで知らないはずはなく)そんな基本すら守らず番組を作っているのか』と思う他なかった。 鉄…

国石 ヒスイの古代史(翡翠)(9)物部氏とヒスイの特別で重要な関係 ★★★ 物部さん考(15)

…年前)には、例えば、三内丸山(青森県)の大型竪穴住居の用途が「交易」であるならば、モノの交換だけでなく、飲食や宿泊などのサービス業もあったことを意味する。 www.zero-position.com ヒスイと鉄鋌(てってい) 鉄鋌 葛城市歴史博物館 一気に時代は下るが、鉄鋌(てってい)とよばれる鉄製品が、河内・物部氏が栄えた近畿中央と、韓半島南部で多く出土し、活発な交易があったことを示している。 鉄鋌は、工具・農耕具・武具などをつくる中間原料として使われたほか、財的な価値があ…

国石 ヒスイの古代史(翡翠)(5)ハヤブサはイトカワで新発見 私はイトイガワで再発見(=古代妄想)

…表現」の華がひらき、三内丸山を始め、当時、日本海に接した集落に櫓(やぐら)やウッドサークルなど「巨大木造建築」が林立した。 火焔土器(馬高遺跡、新潟)、水煙土器(曽利遺跡、長野) 三内丸山遺跡・青森市 巨大櫓と竪穴住居、真脇遺跡・石川県能登町 ウッドサークル 何よりも、豊富な地下資源を背景にした「匠集団」の存在は刺激的。 高度な木造(きづくり)加工も、高度な道具、つまり石斧(せきふ)があって始めて可能だ。そして石斧を作るのにヒスイが使われた。(このシリーズ3回目) これらの事…

メジャー3石器の分布から見える 旧石器時代と縄文時代の繋がり【東北歴史博物館】

…る「海人」になった(三内丸山が最盛期の時代に) 旧石器時代 3石器の分布 パネルを見ていて、北海道のほとんど、南北海道(渡島)と津軽を含む東北、諏訪湖を中心とした中部~関東、近畿~瀬戸内、九州のユニットで、後の縄文時代の文化圏と(おおまかに)符合するように見えた。 当たり前のことかも知れないが、 旧石器時代からの継承観点で、縄文時代の文化圏を考えるアイデアもあるのかと思った。 ***** なお 昨日記事 の復習も兼ねて。 ● 珪質頁岩(けいしつけつがん):堆積岩。海底堆積物に…

遮光器土偶(シャコちゃん)の故郷 晩秋の津軽 水と風の景色

…ない一日だが、去年は三内丸山遺跡(青森市)を見学、今年は遮光器土偶(シャコちゃん)の亀ケ岡石器時代遺跡(つがる市)まで足を伸ばした。 亀ケ岡遺跡はまたあらためて紹介するが、訪れて一番驚いたのは津軽の独特の地形。 亀ケ岡遺跡周辺 地図の「県道12号・鰺ケ沢蟹田線」はタテ長の丘陵地帯を通っており、丘陵(県道)沿いに南北に伸びるように町や村がある。 この姿は石器時代から変わることがないようで、亀ケ岡遺跡(石器時代~縄文弥生時代)も丘陵の中(県道沿い)にある。 例えば、県道東側、亀ケ…

日本海縄文 巨木文化 ウッドサークルの謎(2) 海沿いの集落に建てられた目的とは? 高度な木造技術

…る。 クリの巨木は、三内丸山の高さ10メートルの巨大やぐらにも使われており、温暖だった北部日本海側では、育ちがよく巨木化し、調達しやすい建材だった。 約四千年前の三内丸山(北緯40度)は、今の仙台(北緯38度)あたりの気候で、よく育つクリを栽培して定住し、主食のひとつにしていたことがわかっている。 北緯の2度差というのは大きい。 例えば、北緯36度の金沢市(真脇、チカモリ)の縄文時代の気候は、今の大阪市(34度)ぐらいの気候だったとおおよそ推定できる。 なお、この時期の大阪は…

神社はいつ、どのようにして始まったのだろうか? 三輪山信仰と大神神社 縄文文化の木造建築技術

…文文化だ。例えば、 三内丸山(青森)の巨大やぐらと巨大竪穴式住居、チカモリや真脇(石川)のウッドサークルなどを自在に造っていた。 何よりも何千年も前から木を削って丸木舟を造り、海を行き来していた人々だ。 木に対する豊富な経験、知識、道具、用具を含めた技術。そして労働力。 当時の世界でも、これほどの集団はほかにいただろうか。 www.zero-position.com www.zero-position.com 長者ヶ原遺跡・棟持柱の建物 神社の起源? お付き合いに、ひとつご覧…

日本海縄文 巨木文化 ウッドサークルの謎(1) 真脇遺跡(能登町)チカモリ遺跡(金沢市)

真脇遺跡 ウッドサークル 空を見上げる ストーンサークルは有名だが、ウッドサークルはあまり知られていない。 考古学では環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)という。 石川県、金沢市のチカモリ遺跡、能登半島の北・能登町の真脇(まわき)遺跡、 富山県、小矢部市の桜町遺跡、の3ケ所で見つかっている。 どれも日本海側、築造当時は海のそば、紀元前1000年以降の縄文晩期(学説・地域の画期により弥生時代に含まれることもあり得る)の遺跡だ。 いずれにしても縄文時代から弥生時代への移行期に日…

日本の謎の古代史(8)母なる神を信仰した東北・北海道 大文化圏 高度な古代文化のこん跡(4)

…気になる。 おそらく三内丸山(紀元前2000~3000年)の縄文文化を引き継ぎ、紀元前1000年以降も、持続して高度な文化があったと思う。 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録への動きを契機に、地域の考古学の発展を通して、新しい視点から日本の成立史が明らかになることを期待している。 シャコ母ちゃんと子ども AC 地域は違うが、縄文中期の遺跡で発掘された女性(妊婦)を表現したとされる2つの土偶。 (左)「縄文のヴィーナス」の愛称で有名な棚畑遺跡(長野県茅野市)から発掘(…

日本の謎の古代史(6)津軽平野 亀ヶ岡・十腰内文化 高度な古代文化のこん跡(2)

…未発見の遺跡、それも三内丸山クラスの重要なものも含めて、かなりあると妄想している。 亀ヶ岡物 亀ヶ岡遺跡周辺から出土した土偶・土器は、江戸時代に「亀ヶ岡物」、趣味の対象として1万点以上が盗掘・蒐集され、海外(オランダ)にまで売られたという(Wiki) 今でも遮光器土偶(シャコちゃん)の人気を考えれば、うなづける話。 古代の人々の切実な祈りの祭祀具。 ただし、そのユニークで芸術性の高い表現は、食料や生存に余裕のない生活からは生まれない。 精神的にも物質的にも、ある程度満たされた…

日本の謎の古代史(5)北海道・北東北の縄文遺跡群 高度な古代文化のこん跡(1)

…~南北海道エリア。 三内丸山は、六千年~四千年前の縄文時代のムラ(都市?)で、北部九州に稲作の環壕集落ができる(はやくて三千年前)よりも、はるか以前に栄えた。 前に、三内丸山遺跡のことを紹介したが、列島日本海の交易網の一大拠点と考えられ、巨大木造技術を持ち、世界の考古学の常識を破る「狩猟 & 農耕定住」で生活していた人々。 今よりも地球が暖かな時代、私たちのご先祖様は、東北~北海道南部で、たいへん豊かな文明生活を送っていた。 そして巨大建築物を建造する技術は、おそらく弥生の建…

日本の謎の古代史 考える時のポイント(4) 地球規模の変化と縄文時代・弥生時代

… 現代よりも温暖で、三内丸山が最も栄えた時期。 海が近く温暖な気候は「狩猟 & 農耕による定住」という世界に類を見ない独特の縄文文化を育んだ。この場合の農耕は主に樹木の栽培。 三内丸山ではクリの栽培が確認されているが、全国レベルでは、ドングリや果実が収穫できる広葉樹種が中心だった。現在の「里山」の原型。 また、列島各地で見られる醸造、発酵食、保存食のスタイルは、元をたどれば、縄文文化の継承だ。 後の神社建築に繋がる巨大木造建築技術(溝くい)も、縄文時代から引き継いだ(三内丸山…

日本の謎の古代史 考える時のポイント(1)日本海側から発展、海退と沖積

…あり、大きなものでは三内丸山(青森)のような暮らしと生業(なりわい)があったと思う。 www.zero-position.com 陸の道(山道と川筋)に沿っては、小さな集落(ムラ)が多数。新潟から信濃川・犀川沿いに松本市まで、信濃川・千曲川沿いに上田市まで、また古代諏訪湖周辺に縄文遺跡が分布するのは、その好例かと思う。 縄文の人々は「海の道」「陸の道」を利用して、移動と定住、交流交易を積極的にしていた人達だったと思う。陸の男と海の男を兼ねた者がいたかも知れない。 太平洋側でも…

過去記事。二ケ所追記しました(蘇我入鹿の首塚、出雲大社の創建時期)

本文と画像は関係ありません。実姉。のらくらり、こと、岡本知倫(ちりん)展示作(~6月8日(土)、大阪ミナミ) ブログを始めるにあたり、批判したり頭から否定したり、の書き方はしないと決め、書いてきました。 そうすると、どうしてもボヤ~としてキレが悪くなることがありまして。 自分で忖度していたところがあるかも知れません。うまく書ける技術があればいいんですけどね。 思い直して二件、追記しております。過去記事・各末に追記しました。 よろしければお読みください。 蘇我入鹿の首塚、他人の…

三内丸山遺跡(3)縄文と弥生を繋ぐ文化と技術 世界トップクラスの史跡価値(6月4日追記あり)

前回から続き。 三内丸山の巨大な木造建築物(モノ)。 その労力に見合うだけの目的(コト)。 それを造ることを可能にする技術&組織力(ヒト)。 縄文の高い文化水準、人々の日常を想像するだけでワクワクする。 案内パネルに書いてある「集会場や共同作業所など」の説明に子どもたちは興味を持つだろうか? このような社会レベルでの「ものづくり」方式は、弥生時代の墳墓・神社造りに受け継がれているはずだ。 他にも、三内丸山の「盛り土」は、縄文の「貝塚」と弥生の「墳墓」を繋ぐものと考えたりする。…

三内丸山遺跡(2)世界と繋がる 縄文のくり舟 日本海大交易圏

…見学。 (HPより)三内丸山遺跡から出土した重要文化財約500点、総数で約1,700点の遺物が展示されています 重要文化財の「大型板状土偶」をはじめ、「ヒスイ製大珠」「クリの大型木柱」などを展示しています お目当てのジオラマで、縄文時代の海岸線と大型掘立柱との位置関係を確認。 海沿いの丘に建てられている このブログを何回かご覧いただいた方なら、何を調べているか、分かりますよね。 莫大なエネルギーを投入して、大型の構造物(モノ)を「そこ」に建てたムラの人々の目的(コト) それは…

三内丸山遺跡(1)世界に類のない狩猟&栽培定住 海進と海退 縄文から弥生へ

昨年11月、三内丸山(さんないまるやま)遺跡をたずねた。 新幹線・新青森駅から車で10分。 青森湾から直線距離で約3キロ離れた沖舘川沿い、標高20メートルの丘の上にある。 (HPより)5900年前(BC3900)~4200年前(BC2200)の縄文時代の集落跡で、日本最大級の縄文遺跡である。 広々とした遺跡公園には、ところどころに竪穴式住居や高床式倉庫が復元されていて、自由に出入りできる住居がいくつもある。 復元された大型堀立柱(高さ10メートルぐらい)と大型竪穴住居(長さ約…