前回から続き。
三内丸山の巨大な木造建築物(モノ)。
その労力に見合うだけの目的(コト)。
それを造ることを可能にする技術&組織力(ヒト)。
縄文の高い文化水準、人々の日常を想像するだけでワクワクする。
案内パネルに書いてある「集会場や共同作業所など」の説明に子どもたちは興味を持つだろうか?
このような社会レベルでの「ものづくり」方式は、弥生時代の墳墓・神社造りに受け継がれているはずだ。
他にも、三内丸山の「盛り土」は、縄文の「貝塚」と弥生の「墳墓」を繋ぐものと考えたりする。やがて古墳になる様式だ。
どこからか、降ってわいたものではない、長い蓄積と変化が必要な技術そして文化だ。
北海道と北東北の各自治体で世界遺産化を推進する動きが続いている。
僭越ながらひとつ言わせていただくと、もっと大風呂敷でもよいと思う。例えば、
世界最古 一万年! 海の大交易文化圏の歴史遺産
世界相手には言った者勝ちの、列島・日本海沿岸、縄文・弥生遺跡のネットワーク構想みたいなイメージ。
青森湾・陸奥湾、津軽海峡、もっと言うと、北海道から九州・沖縄の日本海沿岸は
沖合の海中を含めて古代遺跡のお宝の山のはずだ
海が120メートルも深くなった縄文大海進を考えてみれば、何も不思議なことではない。
ムー大陸よりも信憑性が高い話だ。
こういう話をするのも、一部の目玉になる遺跡に関して「縄文」と言い続けるのは、どうしても無理があるからだ。
長い取り組みの途中で、弥生時代の定義が「紀元前一千年~」に変わったのだから仕方がない。
せっかくの取り組みが、そんな理由で停滞したり頓挫しないように祈る。
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さて、もともと三内丸山を訪れたくなったのが、
弥生時代の稲吉角田遺跡(鳥取県米子市淀江町)から出土した土器に描かれた有名な線刻画を見ていたから。
木に吊るされた原初期の「銅鐸」らしきものが見えるので、紀元前300年前後のものだろう。
ローカル過ぎてもったいない気がする。
真ん中の2つと右側の絵。まとめて見てみると、
三内丸山(縄文)と稲吉角田(弥生)は、
日本海という場所、海人というキーワードで、長い時を超えて繋がっていると考えるのは妄想が過ぎるだろうか?
(三回シリーズ終了)
以下、6月4日追記
稲吉角田・弥生遺跡出土土器の線刻画は距離的に近いことから出雲大社創建時の姿として有名になったが、どのように考えても矛盾が多い話。
「雲太、和二、京三」の言い伝えに、格好の材料と飛びついたはいいが、階段付建物以外の絵柄と出雲大社との関連説明がない。まずは全絵柄をセットで意味を考えるべきなのに、性急に都合の良い所だけ抜き出したと批判されても仕方がない。平原(ひらばる)の原田大六さんが最も嫌う非論理性だ。
紀元前三百年ころに今の神社の社殿建築物は無く、あったとしてもイワクラと簡単な祠ぐらいだろう。
出雲大社の創建が奈良時代以前より遡ることは無く、つまり線刻画が描かれた時には、大社は影も形も無かったことになる。
出雲大社の創建と平城京遷都(710、第一次)がセットであると考えれば、御神体・オオクニヌシの西向き配置とあわせて、結界ラインの謎が解ける。