私たちが慣れ親しんでいる神社の木造建築様式は、弥生時代のヤマトで確立されたと思う。
唐古・鍵遺跡(紀元前200年~西暦200年)の集落内の棟持柱(むなもちばしら)のある大型建物が、確認されているものでは日本最古級
棟持柱の大型建物は、伊勢神宮正殿の「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)とほぼ同じ、今と変わらず「特別な建物」を意味していたはずだ。
棟持柱は、建物の短編中央、地面から屋根を支える太柱のことで、ひとつの建物に二本ある。
唐古・鍵の文化は纏向(まきむく、西暦200年ごろ~400年)にスライドするが、纏向の至近距離に三輪山、ふもとに大神神社(おおみわじんじゃ)がある。
出雲後物部(いずものちもののべ)の始まり
大神神社の創建は紀元前100年以降と推定され、日本最古の神社だと思われる。
御神体の三輪山を遥拝する神聖な場所。麓から山頂までイワクラ群(辺津・中津・奥津)が置かれていた所(横)に、神社(本殿)が建てられた。
イワクラは出雲様式、神社は物部様式。
出雲最大の神・オオクニヌシにモノノベの神が習合して「大物主」になり、
その習合に、ヤタカラス・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が政治的に深く関係していたと妄想している。
先日、四回シリーズで(三輪山の隣、真南の)鳥見山と等彌神社(とみじんじゃ)を紹介したのはそういう理由。
これらの舞台背景・装置の「点」を繋いで行くと「神武東征」の神話とは別のストーリー、史実の側面がおぼろげながら見えてくる。
そういう意味でも、纏向(文化)は、三輪山信仰と大神神社の成立、弥生時代から古墳時代への変化の「メルティングポット」の観点から見直されてもよいと思っている。
では神社の「木造建築様式」はどこからやって来たのだろうか?
巨木を伐採して山から運び出し、建材として加工し、建物として組み上げてゆく体系。
そもそもシステマティックな技術には、長年の経験と知識、それに道具が必要だ。
当時、新来で渡来系の物部氏にそれほどの蓄積があったことはまずあり得ない。
物部氏始祖の渡来は推定で紀元前300年、ヤマト到達は同200年。日本に来てたかだか100年の新参者。
日本の木の特性を知らない。労働力もまかなえない。
協力者が必要だ。それは誰か。
直接的には、ヤタカラスの系譜、賀茂系のヤマト出雲族だと考えている。
では、彼らが「木の技術」を持っていたのか。
半分イエスで半分ノーだ。
縄文の流れを汲む木のものづくり技術
私は出雲と縄文は、列島日本海側(北海道~北部九州)から内陸部に向かって順に習合していったと考えている。
木の技術は縄文文化だ。例えば、
三内丸山(青森)の巨大やぐらと巨大竪穴式住居、チカモリや真脇(石川)のウッドサークルなどを自在に造っていた。
何よりも何千年も前から木を削って丸木舟を造り、海を行き来していた人々だ。
木に対する豊富な経験、知識、道具、用具を含めた技術。そして労働力。
当時の世界でも、これほどの集団はほかにいただろうか。
長者ヶ原遺跡・棟持柱の建物 神社の起源?
お付き合いに、ひとつご覧いただこう。想像(妄想)はお任せする。
長者ヶ原の遺跡(新潟県糸魚川市、5000~3500年前、縄文中・後期)の棟持柱を持つ竪穴式の復元建物。
長者ヶ原遺跡はまだ全体の10%ほどしか発掘されていないが、その中の一号建物と名付けられた中心的な建築物。
墓域のそばに建てられていて、何らかの「まつり」を行った空間だったと説明されている。
この建物は、何度も同じか、近くの場所で建て替えられていたことがわかっている。
もし二十年に一度の建て替えだったらますます面白い(式年遷宮?)
なお、長者ヶ原遺跡(長者ヶ原考古館)はフォッサマグナミュージアムに隣接している。
今回、北陸・新潟エリアの縄文遺跡を何ヵ所か見学したが、おおむね各遺跡(縄文集落)には同様の祭祀に関わる中心的な建造物がある。