昨年11月、三内丸山(さんないまるやま)遺跡をたずねた。
新幹線・新青森駅から車で10分。
青森湾から直線距離で約3キロ離れた沖舘川沿い、標高20メートルの丘の上にある。
(HPより)5900年前(BC3900)~4200年前(BC2200)の縄文時代の集落跡で、日本最大級の縄文遺跡である。
広々とした遺跡公園には、ところどころに竪穴式住居や高床式倉庫が復元されていて、自由に出入りできる住居がいくつもある。
復元された大型堀立柱(高さ10メートルぐらい)と大型竪穴住居(長さ約32メートル、幅約10メートル)の大きさには驚いた。まさか縄文遺跡で建築物の大きさに圧倒されるとは夢にも思わなかった。驚きを感じることをできただけでも、訪れた甲斐があった。
大きな柱はクリの巨木。
ここが一番栄えたのは、地球があたたかな「海進」の時代で、今よりも海抜が5メートル高く、海は丘のすぐそばまで来ていた。
三内丸山は、現在の仙台ほどの温かさだったおかげでクリが巨木化したそうだ。(クリが巨木になるとは知らなかった)
しかもクリを栽培し、収穫した実を保存し、一年を通して食べていたという。また、遺跡からは1メートルもある巨大タイの骨も出土している。
海の幸♪、山の幸♪である。
これは驚くべきことだ。
世界広しといえど、狩猟採集集団が植物を栽培して、しかも巨大建築物とともに定住していた例は、ここだけかも知れない。
弥生時代も含めて、世界中どこでも都市文明はプランテーション&セツルメント(農耕&定住)で定義されるが、そんな常識をぶち破っているのがこのムラの 狩猟&定住 の様式である。
私が知らないだけかも知れないが、他にこんなケースがあるのだろうか?
しかし、この後の「海退」で海が遠くなり、同時に起きた寒冷化でクリが育たなくなる。
やがてムラは打ち棄てられることになった。
縄文のムラ人は海辺に近い沖舘川河口に引っ越ししたはずだ。
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それから千数百年の時が流れ、そこは漁業と水田稲作のムラに変わりつつあった。
ムラ人の子孫たちは、後世の人から「弥生人」と呼ばれるようになった。
農耕で食糧が安定し人口も増えてきた。(弥生時代は紀元前1000年から)
私が考える縄文から弥生への「社会の変化」の姿である。
列島各地で同じ光景が一斉に見られただろう。
続きます(三回シリーズ)