はじめに
八ヶ岳西南麓遺跡群のひとつ #阿久遺跡(あきゅういせき。国史跡)には多数の竪穴住居や土壙墓、列石や環状集石遺構など #縄文時代のムラと祭祀 のこん跡。驚くことに高床式倉庫や大型集会所建物らしき跡も #真脇遺跡 #三内丸山遺跡
目次
本文
阿求遺跡(あきゅういせき)から八ヶ岳の眺め
今回の諏訪行きまで、八ヶ岳という山があると思い込んでました。連峰の総称だったんですね😅
八ヶ岳の「八」は「たくさんある、たくさん連なる」という程の意味でしょうか。
阿久遺跡 高床式倉庫跡と集会所的な大型建物跡
(35.96472939168951, 138.19136385364436)/長野県諏訪郡原村柏木(阿久遺跡収蔵庫)/収蔵庫敷地に駐車場
阿久のムラと大祭祀場)阿久遺跡は八ヶ岳西南麓遺跡群と呼ばれる遺跡のひとつで、縄文時代前期を中心に、早期・中期・後期と、平安時代後期にかけての複合遺跡です。中央自動車道建設に伴い、昭和50〜53年にかけて行われた発掘調査により遺跡の重要性が確認され、中央自動車道下に砂で埋めて保存されました。
阿久に人が住み始めるのは約七千年前の前期の始めの頃になります。次第に住居は多くなり、中央に広場を持つ、環状に住居が廻るムラ を形成しました。広場の外側には 高床式の倉庫と考えられる柱の跡 を発見しました。前期の中頃になると以前のムラの東側に場所を移して住居を建てるようになり、内側にはお墓と考えられる土壙が多く作られました。
縄文時代前期に高床式倉庫らしき建物とは驚きです。
一般に高床式倉庫は、食べ物の貯蔵目的で建てられるものですから、早くても稲作の弥生時代以降と考えていた私の常識がひっくり返りました!!
阿久に食べ物貯蔵施設があったということは、縄文時代には共同体としてそれを管理する『ムラ(そしておそらく首長)』が存在し、この時代の(稲作ではない)農耕=定住文化を強く推理させます。
縄文時代の農耕 については、三内丸山遺跡(青森市、5900~4200年前=縄文中期。阿久よりも遅い時代)のクリの栽培化(ドメスティケーション。農耕のほかイノシシ飼育など畜産の直前段階も含めた概念)がよく知られています。
ドメスティケーションであれ農耕であれ、そのためには 定住 が前提になりますが、この点、阿久ではムラ成立のこん跡である多数の住居跡や土壙墓、それに多量のアーティスティックな土器・土偶が確認されています。
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参考に、以前紹介した真脇遺跡(石川県能登町)の縄文時代のドメスティケーション実験。
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約六千年前の前期後半になると ムラの中央の広場に長さ120センチ、幅35センチの角柱状の石を建て、それを囲むように石を組んだ立石とそこから直線に並ぶ列石が作られ、この施設をドーナツ状に取り巻くように土壙群と環状集石群が作られてゆきます。直径1〜2メートル、深さ30センチ程の穴に石を積み上げ、そのまとまりが環状に廻る環状集石群の石の総数は10万個以上とも言われています。阿久のムラは居住の場から祭祀の場へと変遷してゆきました。その後、さらに祭祀場の規模が大きく拡大し、住居は僅か二軒のみとなります。このうちの一軒は 数回の建て替えをした非常に大型の集会所的な住居 で、阿久のムラは共同の祭祀場として使われるようになります。しかしこの時期を最後に前期の阿久のムラは役割を終え、縄文時代中期へと変わっていくのでした。
阿久遺跡はほぼ縄文時代前期を通して人々の生活の場で、居住の場から祭祀の場へと変遷していった過程と、前期の墓制や祭式など、社会の精神構造を知ることができる遺跡として、全国的に例がなく、大変貴重な遺跡です。
大型の集会所的な建物とはどんなものでしょうか。利用目的の推理も含めて将来の復元を楽しみにしております(列石については次回②で)
以前、三内丸山の大型竪穴住居は津軽と渡島(北海道)の交易拠点の宿場ではないかと古代妄想したことがありますが、もしかしたら、阿久遺跡を含む八ヶ岳西南麓遺跡群は、関東エリアと日本海側(新潟)を繋ぐ縄文陸路メインストリート(現在の中央本線)の宿場町群でもあったのかも知れませんね。
あるいは、後の諏訪大社の信仰につながるような、縄文諏訪信仰のこん跡(建て替え(式年遷宮)のある社殿あるいは御柱)だったのかも…古代妄想がドント・ストップです🤩