前回
縄文から弥生への移行期にあらわれたウッドサークル
ウッドサークル(環状木柱列)(跡)は、今のところ、チカモリ遺跡(石川県金沢市)、真脇遺跡(石川県能登町)、桜町遺跡(富山県小矢部市)の3ケ所で見つかっている。
共通しているのは、日本海側、築造当時(海退期)には海の近くの集落、紀元前1000年以降の縄文後期・晩期の遺跡であること。
紀元前1000年というのは地域によって「弥生時代」の始まりとする時代で地域差がある。
なので「縄文時代から弥生時代への移行期」という方が全国的にはわかりやすい。
今回は石川県の二つの遺跡を見学して考えてみた。
ウッドサークルの様式
直径が60センチ以上のクリの巨木をタテに割って半円形にした10本を、平らな面を外側に向け、等間隔でサークル状に並べている。
クリの巨木は、三内丸山の高さ10メートルの巨大やぐらにも使われており、温暖だった北部日本海側では、育ちがよく巨木化し、調達しやすい建材だった。
約四千年前の三内丸山(北緯40度)は、今の仙台(北緯38度)あたりの気候で、よく育つクリを栽培して定住し、主食のひとつにしていたことがわかっている。
北緯の2度差というのは大きい。
例えば、北緯36度の金沢市(真脇、チカモリ)の縄文時代の気候は、今の大阪市(34度)ぐらいの気候だったとおおよそ推定できる。
なお、この時期の大阪はほとんど海の底、上町半島(現在の上町台地)を除き、影も形もない。
ウッドサークルの目的(開物案★★★)
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
以前、三内丸山の巨大やぐらと巨大竪穴住居は、海人の灯台(のろし場)と宿泊施設で、日本海側には同じような未発見の巨大建造物があるかも知れないと妄想を書いたことがある。
真脇やチカモリは、三内丸山よりも約一千年、時代が下るが、やはり同じ目的の建造物ではなかろうかと考えている。
巨木を使うのは「高さ」を必要とするからで、遠くを見張り、また、遠くからでも見えるようにするためだ。
この場合の「遠く」は海上。
そして、サークルにすることで、より巨大な木に見せることができる。木を割った平らな白い方を外側に向けているのは遠くからでも見やすくするため。
例えばサークルの周囲で松明を燃やし、照り返しで暗くなっても見やすくしたのかも知れない。
真脇は能登半島のほぼ先端、金沢市内から車でとばしても1時間半の「最果て」に位置するが、それは現代人の感覚。海人には逆で、丸木舟・日本海ハイウェイのサービスエリア(道の駅)になる。
そう考えていると、活発でスピーディ、私たちが考える以上に躍動的な縄文海人たちのライフスタイルが浮かび上がってくる。
またそう考えないと、糸魚川(新潟県)原産のヒスイ加工品が、北海道から沖縄まで、列島全域に分布する説明が難しい(他に黒曜石、サヌカイト、アスファルトなども)
他には、日時計の可能性もあるが、もしかしたら、灯台(見張り台)と兼ねた建物だったかも知れない。
木組み建築の可能性が高まる
チカモリも真脇も、今のところ木柱列を建てているだけなのは、当たり前の話だが、上部のデザインがわからないからだ。
しかし、近年(2015年)、真脇でホゾが付けられた建材が発見された。
桜町遺跡(富山県)から、貫穴(ぬきあな)のある建材が発見されている。
つまり、今の神社仏閣で普通に見られる「木組み」の木造建築物が、ウッドサークルの時代に建てられていたということを意味する。
真脇遺跡ではホゾのある建築部材について現在研究中ということで、将来、それをもとに建物やウッドサークルの復元が検討されるようであれば、楽しみだ。
先行して、桜町遺跡では高床式やウッドサークルで、木組みを復元したものが屋外展示されている。今回は見学していないため、リンク先でご覧いただきたい。あくまでも想像だろうが、ウッドサークルは神社の鳥居を円形にしたようにも見える(続く)