ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【原休戸 千鹿頭神社】神長官守矢家系譜のこん跡を読む【チカト信仰・考(2)】

はじめに

森の奥に小さく見えた鳥居 #原休戸千鹿頭神社 社殿もなく小さな石祠だけの素朴な境内に むしろ歴史の古さを感じます。#チカト信仰 考察の二回目 #神長官守矢家系譜 に見える #出雲後物部 の歴史のこん跡

目次

本文

原休戸(はらやすみど)千鹿頭神社(10月19日参拝)

(35.88827098522802, 138.22393256585562)/長野県諏訪郡富士見町富士見花場/採石場の砂利道沿いに鎮座。神社前に通行の妨げにならない程度のスペースがありますが大型トラックの通行があります。

ご覧のように 砂利道から奥の神社鳥居は見えにくい ので注意。

原休戸 千鹿頭神社

原休戸 千鹿頭神社

比較的新しい鳥居(平成五年)で、扁額に 千鹿頭大明神

人里から少し離れていますが、参道は踏まれており、定期的に参拝管理する人がいる様子。

御祭神:千鹿頭ノ神(千鹿頭大明神)

原休戸 千鹿頭神社 鳥居

原休戸 千鹿頭神社 経緯が書かれた碑

平成五年南諏衛生センター最終処分場建設に伴い 川原休戸千鹿頭神社*1 を(ここ)原休戸千鹿頭神社 境内に移転合祀する(平成五年十一月 休戸区)

原休戸千鹿頭神社 石祠

影の濃い樹林に囲まれ、社殿はなく、いくつかの石祠が並んでいるだけ。

前回の横吹と同じく御柱(おんばしら)は立てられていません。

素朴な境内は、おそらく諏訪の縄文信仰を継承した 狩猟の神 をたてまつる 千鹿頭(ちかと)信仰 のあり様でしょうか。

原休戸千鹿頭神社 境内

出雲後物部のこん跡(守矢氏系譜)

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先日の記事で「大祝と神長官の二頭体制の成立に伴ってミシャグジ信仰と同根だったチカト信仰は切り離されたのではないか」と書きましたが、このあたりの経緯は、守矢家系譜が参考になります。

(④児玉彦命は、タケミナカタ=諏訪)大神の御遺言のまにまに(大神之御遺言之随)千鹿頭神の後を継いで祭政をつかさどる

系譜をよく見ると、①洩矢神の系譜は、チカト信仰の祖・③千鹿頭神の代で事実上、断絶していて、

一方、④児玉彦命は、タケミナカタの御遺言どおりに諏訪大社上社祭政 をつかさどるようになった経緯が見えます。

守矢家系譜(wikiより)

「祭政」とは、物部守屋の次男・武麿(弟君)の養子入り(伝承)が契機となって確立された「諏訪大社上社の」大祝(祭)と神長官(政)の二頭体制のことを指していると考えられます。

(いかにも近代的な「祭政」という表現は、守矢家系譜が明治期に文字化されたことと関係があるようです)

この点で、守矢家系譜は、後世にある程度、書き換えられていると推理できますが、

もうひとつ、祖のタケミナカタが「出雲」であるのに対し、それが数世代の後に守矢氏、すなわち(武麿以降の)「物部系」に変化している点に強烈な違和感を覚えます。

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古墳時代(特に中期・後期)を通して、支配者・物部氏は一貫して、弥生時代に全国に広がり定着した出雲文化を消し去ろうとした歴史があり、当ブログではそのこん跡らしきものを 出雲後物部(いずものちもののべ) として紹介しています。

出雲後物部こそが、日本の古代史、時に「隠された」と表現されることもある弥生出雲の歴史を分かりにくくしている理由のひとつです。

守矢家系譜の、洩矢神(おそらく縄文由来)の断絶と、タケミナカタ(出雲)系譜の物部系へ書き換えは、そのこん跡であると考えています。

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*1:当社の南に約2キロに位置するゴミ処分場(南諏衛生施設組合、35.88040863361315, 138.23515536245466)の入り口付近に、合祀された川原休戸千鹿頭神社(跡)