はじめに
諏訪大社上社の #神長官(じんちょうかん)として中世をピークに明治期まで続いた #守矢家。当ブログ #物部さん考 の一環として #神長官守矢家資料館 を訪問
目次
本文
神長官裏古墳
直径約九メートルの土の盛り上がりの頂上に玄室が露出しています。
案内板には、元はもっと規模の大きな円墳で、西暦六百年代(七世紀頃)の築造と書かれていました。
「神長官守矢史料館のしおり(有料)」に「(先代が)用明天皇(第31代)の御世の我が祖先武麿君(弟君)の墳墓です。といった内容の説明をしていたことをかすかに記憶しています」という子ども時代の記憶を、現当主(第78代)守矢早苗氏が紹介しています。
※武麿(たけまろ)。弟麿(おとまろ)とも
27代目に現れる武麿(弟麿)
神長守矢家では第76代(先代)まで、一子相伝の口伝により、その古い歴史を伝えて来たといい、系譜(系図)もそのひとつ。
古墳の埋葬者と伝えられる武麿(弟麿)は、祖として神格化された洩矢ノ神から数えて27代目に登場しています。
伝えられるところ、武麿(たけまろ)は、用明天皇の崩御直後に起こった丁未の乱(ていびのらん、587年)で厩戸皇子*1軍に討たれた物部守屋の二人の息子の次男で、ゆえに弟君(おとぎみ)とも云われます。
資料館のスタッフの方に武麿について聞くと「武麿は守屋の次男で、守矢家に養子として入ったという説はあります。ただ何分古い昔のことなので本当のところはわかりませんが…」とおっしゃってました。
点を繋ぐ線 地域に残る物部守屋の伝承
史実として、物部宗家は守屋の死により滅亡しますが、生き残った息子と一族が、諏訪などに逃れたという伝承を繋ぐ事実は、現在は国道152号線で茅野市に繋がる山間部の伊那市周辺に色濃く残っているようです。
先日紹介した物部守屋を祀る守屋神社は、国道152号線沿線に鎮座。
(記事の後半は、当ブログ「物部さん考」カテゴリーをざっくりまとめて振り返り)
伊那市の守屋神社を紹介した際に、記事を読んでいただいた伊那市の地元の方からの情報。
石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市鎮座、河内期物部氏の氏神。
出雲伝承(口伝)や奈良県田原本町の村屋坐弥冨都比売神社*2にも同様の言い伝えがあり、
丁未の乱後の、逃走の出発点と到着点を繋ぐ伝承があるのは、古代史推理の強くて太い線です。