長い休みに入ったので妄想年表を作ってみた。
とはいっても、縄文~弥生~古墳~飛鳥と続く年代区分に逆らうつもりはない。
イワクラや神社がどの時代に造られるようになったのか、時代区分に合わせてみた。
近年、弥生時代の開始時期が大幅にさかのぼっている点に注意。
あの有名な遮光器土偶も、紀元前300年あたりの亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)から出土、つまり、弥生時代の土偶ということになるが、歴史的価値は何ら変わりはない。
松本清張さんは津軽弁と出雲地方の方言をモチーフに「砂の器」をうみだした。
新しい発見があるたびに教科書も柔軟に変わってゆくのは当然。バイオ生物学の世界は毎年変わるので受験生は大変だ。
古墳時代は河内期・物部氏の繁栄期
前回記事で「クニビキは出雲のイメージ、クニウミは物部のイメージ」と書いたが、「イワクラは出雲、神社は物部」。
鳥居や宮(本殿)、浮き橋(反り橋、太鼓橋)のある神社はモノノベ様式としてスタートした。
神社=クニ造りの拠点になるため、多くの場合、先に進出した出雲勢力のイワクラがあるところに、物部は神社を創建した。「出雲後物部(いずも・のち・もののべ)」の具体的なこん跡だ。
浮き橋は、クニウミ神話でイザナギとイザナミがたっていた「天の浮橋」。
ご神域はクニウミで生まれた「シマ」。シマには天の浮橋からわたる、または、シマが生まれるのを拝む。
前者が宗像(むなかた)式、後者が厳島(いつくしま)式。
物部氏滅亡(丁未の乱)は歴史的にたいへん重要なイベント
古墳時代(前方後円墳)が終わった時代と物部氏の滅亡はリンクしている。
また、飛鳥京の中も外も、飛鳥時代に創建された神社はない。かわって寺が多数造られている。
おそらく唯一の例外が諏訪大社上社。
もののけ(鬼、もの)になった物部守屋とその先祖を鎮める巨大な仕組み(結界)が必要だった。上社の創建は587年の可能性が高い。
崇仏派が勝利したからアタリマエで済ませていると「見えない歴史」もある。
「飛鳥時代の謎」はモノノベ後の新しい神道を模索した推古女帝、斉明(皇極)女帝の視点で考えれば見えてくる。
古来、女帝(姫御子)は巫女であり、仏教に女帝の出番はない。
祭祀施設と墳墓を分けて考える
古代の祭祀施設と墳墓は明確に分けられている。考古学では一般的にそのように考えられていると思うが。
原点は「平原弥生古墳」の原田大六(だいろく)さんだ。
大六さんは「銅鐸・銅剣・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)」の青銅器セットは祭祀用、「鏡・剣(鉄)・玉」のセットは墳墓用、と線引きして考えるべきと提唱された。
理由は、青銅器セットと三つの神器が同時に出土した遺跡はゼロという単純な事実。
かえってそのシンプルさが、目からウロコだった。つまり、神社(祭祀)と古墳(墳墓)の関係も同じ・・・
そこから行き着いたのが、
ウキシマ式の神社はモノノベ様式の祭祀施設、前方後円墳はモノノベ様式の墳墓。
河内期・物部氏のものづくり拠点は八尾・東大阪・平野、祭祀施設(聖地)は上町半島北端(大阪城の地にあった生玉神社)、そしてクニの「サカイ」の堺~藤井寺~羽曳野に墳墓が造られた(百舌鳥古市古墳群)
飛鳥(斑鳩)から見たサカイではなく、河内から見たときのサカイだ。堺は海上交通の要衝、藤井寺~羽曳野は陸上交通の要衝。飛鳥と難波(瀬戸内海)を繋ぐ意味での要衝だ。これが意味するところ。
「崇仏 vs 排仏」の図式はオモテの理由に過ぎないと思う。
弥生時代の古墳?
話は少しズレるが、大六さんが弥生時代の平原墳墓を「平原弥生古墳」と強調したのは、
平原墳墓が、後の古墳時代の先駆けであるという考え方から。
※物部さん考(8)の際、指摘を受け、関東では600年代(飛鳥時代)でも小型の前方後円墳が造られて続けていたことを確認した。飛鳥京から遠いこと、小型であることから、物部氏の系統が「まつろわぬ者」として続けていたと推理した。飛鳥時代の天皇(主に女帝)は国体護持のため苦心したであろう。
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