ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

物部さん考(11)物部守屋の「もの」 諏訪大社・古代妄想ガイド★★★ 信濃と大阪・上町台地(4)

前回の続き

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上社(二宮)と下社(二宮)が違う理由を考える

諏訪大社・下社二宮と上社二宮は距離的に離れており、それぞれ異文化の雰囲気。下社は大注連縄(おおしめなわ)など出雲文化が残っている。上社にはない。

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諏訪大社四宮めぐりをして感じたのは、とにかく下社二宮と上社二宮の違い。

まず下社二宮について

下社二宮には大注連縄や龍神信仰などの「元出雲」様式に、反り橋・浮島の「物部」様式が乗っかっている。

大きな社でよく見られる「出雲後物部(いずものちもののべ)」の姿だ。解説すると・・・

出雲勢力は、日本海側(新潟)から信濃川を遡上するルートで科野(しなの、松本市安曇野一帯)から諏訪地方に先に入った(北から先に)

一方、物部勢力は後から、天竜川遡上あるいは甲府市北上ルートで南から諏訪地方に入り一帯を拠点化、その後、下社二宮を皮切りに、生島足島神社(上田市)、科野といった出雲テリトリーを飲み込んでいった(南から後に)

と大まかに推理している。この見方は、前方後円墳などの考古学的観点、記紀などで伝えられる歴史観点(東遷)と、おおむね、矛盾しないと考えている。

問題は下社二宮

一番引っ掛るのが下社(二宮)に「反り橋がない」こと、つまり、モノノベ様式を踏襲していないことだった。

考えられる理由はひとつ。

物部氏滅亡後の造営であれば、物部氏を象徴する反り橋(太鼓橋)を造ることはない。

物部氏丁未の乱(587年)で聖徳太子軍に敗れ、大阪の地で滅びた。

上社(二宮)はいつ造られたのか?

ポイント1:用明期(587年)諏訪湖の南に「社檀」が設けられた【知る人ぞ知る話】

(青文字の抜粋文中)用明天皇二年、587年とは丁未(ていび)の乱の年で一致する。

「大祝」とは諏訪大社特有の制、いわゆる最高神官で、神格化されていた時期もあった。

「大祝」の出自については諸説(洩矢氏や金刺氏などの土着族)説、大神氏(ヤマト族)説など)あり、真相は謎とされている。

なお、用明天皇の息子は聖徳太子だ。

有員(ありかず)は大祝(おおほおり)の始祖と伝えられている。(上社前宮の説明板より)

※「阿蘇氏略系図(異本阿蘇系図)」には偽書説もあることは公平を期して書いておく

(以下、Wiki「大祝」より抜粋)

歴史学者田中卓が1956年に発見した「阿蘇氏略系図(異本阿蘇系図)」と1884年に見つかった「神氏系図(大祝家本)」には、科野(しなの)国造家出身の神子(くまこ)、または乙頴(おとえい)という人が用明天皇二年(587年)に諏訪湖の南に社檀を設けて初代大祝(おおほおり)となったとあり、有員(ありかず)がその子孫とされている

本田善光の謎

物部氏滅亡後の時代、ヤマトの都(飛鳥あるいは四天王寺)に来ていた本田善幸が難波の堀江に沈んでいた

ポイント2:阿弥陀如来像を自宅(元善光寺飯田市)に連れて帰る【有名な話】

本田善幸が背負って帰ったものは、阿弥陀如来像と「もうひとつ」あったと推理している。

「もうひとつ」とは何か?

善光寺の守屋柱の下に埋まっている首」「守屋神社の守屋の墓」の説話の元になった「もの」である。

古代「鬼」は怨霊であり「もの」と呼ばれていた

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聖徳太子四天王寺を建立した目的、そして、そこで太子は何をしようとしていたのか?

まだわからないことも多いが、いずれ書いてゆきたいと思う。

消え去った飛鳥の祝部(ほふりべ)

(繋・明日香村の大字に伝わるはなし 明日香村文化協会 40周年記念 平成31年1月刊行より)

・・・明日香村に祝戸(いわいど)という字(あざ)がある(飛鳥の中心「岡」のすぐ南)

・・・古老によれば、古代には祝部(ほふりべ)、神を祀る者たちが住んでいたという。

・・・時代とともに神主の必要もなくなり、祝部は去る際に村の名を「祝戸」と名付けたという。

「神主が必要でなくなる時代」とは物部氏が滅んだ「丁未の乱」後であることは間違いない。

ポイント3:祝部がどこに行ったのか不明【明日香・祝戸地区の伝承】

ポイント1、2、3のまとめ(点と線)

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

3つの点を繋いだ私の大まかなストーリー立ては次の通り。当ブログ初の★★★小説レベル。

● 丁未(ていび)の乱直後、聖徳太子勢力は、怨霊を怖れたか、新しい国家造りの障害にならないよう、守屋の遺骸(首級?)を本田善幸に依頼、遠くに埋葬させた(守屋山)

● 守屋神社(守屋山)~諏訪湖南一帯(伊那市茅野市)は、物部氏諏訪湖に進出した当初の拠点で眷属も多かったのがその選定理由

● その時に鎮護の社檀、つまり、諏訪大社上社が建立された。最初は上社元宮

● 大乗仏教を推進し始めたばかりの時期の神社造営は異例

● 合わせて飛鳥に居た「祝部」を諏訪地方に移住させた。現在の上社前宮が居住地(神原)になった

● よって「祝部=大祝」で物部氏の生き残り一族と考えられる。飛鳥を追い出され諏訪で大祝となった。やがて「守矢」を名乗る(矢は河内期・物部氏のシンボル、なお鈴と剣は石上つまりヤマト期・物部氏のシンボル)

● 上社二宮は守屋神社の守屋山を拝んでいるが、公に秘密にされた理由は、これらの経緯に関連する

この考察から、諏訪大社上社二宮の造営は587年(丁未の乱)以降と考えるようになった。

はじめ、上社二宮=物部勢力が造営=男神、下社二宮=元出雲勢力=女神で後に物部、と考えていたが事情はより複雑だったようだ。

考察のきっかけが飛鳥(ポイント3、飛鳥のバイブルで見つかったのは予想外だった。

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