諏訪大社上社本宮、上社前宮、守屋神社、守屋神社奥宮。
私の古代への興味の原点は、四天王寺金堂の鳥居と物部守屋祠(ほこら)の位置関係だった。
くわしくは[こちら(鷹の止まり木、怨霊のキツツキ伝説)をご覧いただくとして。
丁未(ていび)の乱(587年)で聖徳太子軍は、今の大阪府八尾市あたりに拠点を置き権勢を極めた(河内期の)物部宗家・物部守屋を滅ぼした。
ここに約九百年の間、古代王権に影響を与え続けた物部氏は実質的に滅び、その後、日本史から名が消えることになった。
ゆえに四天王寺さんや南大阪周辺に物部氏関連の遺跡遺構・伝聞が残るのは理解できる。
しかしなぜそれが信濃にもあるのか、正直まだよくわからない。
例えば、善光寺・守屋柱、守屋の名のついた神社(守屋神社)と山(守屋山)。
善光寺地下の胎内巡りは暗闇の中を手探りで進む怖さで有名だが、守屋の首が埋まっているという守屋柱の周囲を一周するという説がある。
そのような話が出るぐらいに物部守屋の存在感は大きい。
ただ最初の手掛かりは残されている
本田善光が「難波の堀江」から持ち帰った(602年)阿弥陀如来像が善光寺のご本尊になったという話(水中から突如出現する仏様の話・野沢菜と天王寺蕪)は、何らかの史実を元にした「ウラ」のある話だと考えられる。
(ちなみにこの話、私が「難波の堀江」を四天王寺あたりと推定する根拠でもある)
この時から物部守屋の魂は信濃に行き、その鎮魂のために守屋山の名が付けられ、守屋神社が置かれたと考えるのが自然である。
なぜなら最初に阿弥陀如来像が安置されたのは善光の自宅、現在の飯田市にある元善光寺で、守屋山も守屋神社も伊那市で近くだ。
諏訪大社上社・本宮と春宮
そして元善光寺から望む守屋山(守屋神社)を挟んで反対側の諏訪湖方面に、諏訪大社上社・本宮と前宮がある(冒頭地図)
諏訪大社上社前宮に設置された地元民の有志が立てた案内板。一番上に守屋山が描かれている。
始めこの案内板を見て、本殿裏から守屋山らしき山を撮影したつもりでいたが、そんなに近くの山でなかったことを後で調べて知った(笑)
境内から見えない守屋山を最上に描いているのは、いくつかの古墳(常坊主、山の神)を越えて、その奥にある守屋山を、地元では「特別な山、御神体」とらえている可能性が高い。
そして、それを神社が放任しているのは「ほのめかし」だ。
前宮・謎の大祝(おおほおり)と神原(ごうばら)
大祝は「おおほうり」と読み「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体とする」と伝えられる、簡単に言えば神職である。相当に神聖視された一族だったようだ。
大祝の住んでいた場所が、案内板の立っているあたり、神原(ごうばら)である。
諏訪大社四宮の大祝とされているが、原初はこの前宮を拠点にして、元宮を含む、いわゆる「男神」諏訪大社の上社が本地であったと考えている。
下社「女神」は「元」出雲だからだ。
そして上社は守屋山を拝んでいたが、公には秘密にされたと考えた。
この古代妄想にはもう少し話がある。
上社前宮は、他の諏訪大社の宮とずいぶん印象が異なり、造りが自然のままというか、石段がなく、緩やかな山道のような坂を上がってゆく構造だ。
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE