大阪歴史博物館の最上階では、北側の大阪城から南側の難波宮まで一望できる。
周辺の神社を含めて、説明を入れてみた。
秀吉の大阪城は、玉造稲荷神社あたりまでが三の丸(城の外縁)という壮大な建造物であった。
正面に生駒の山並み、歴史博物館の眼下中央の通りを進んで大阪城公園の切れるあたりが「森ノ宮、もりのみや」の交差点。
鵲森宮(かささぎもりのみや。通称・森ノ宮神社)
森ノ宮交差点を南に下ったすぐの所に、一帯の地名の由来になった鵲森宮が鎮座する。
本社・御祭神:用明天皇(ようめいてんのう、第31代)、穴穂部間人皇后(あなほべはしひとこうごう)、聖徳太子
奥社・御祭神:天照大御神、素戔嗚尊、月読命
仏教の布教に力を尽くした聖徳太子が、ご両親とともに御祭神として崇敬されているのが興味深い。
ご由緒の下に、宮司さんが書かれた直筆の説明文と内容が面白く、古代妄想を刺激された笑
(説明書文字起こし)この地は大和政権で軍事、警察、裁判を担当した物部氏の本宅があった地であります(平成17年4月、物部氏の末裔である守屋氏が来られ語っております)聖徳太子率いる蘇我馬子と皇族の連合軍が物部守屋に勝利した後(丁未の乱)、この地に父(用明天皇)をお祭りする為、当神社を創建される。のちの聖徳太子も祭られております(蘇我馬子、物部守屋は用明天皇の大臣)
この内容を読むと色々妄想できる。とりあえず、ここが河内期・物部氏の本拠であり、森ノ宮という地名は「守屋」から来ているのだろう。
またなぜカササギなのか考えていて気付いたこともあるが長くなるので、またの機会に。
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隣のビルが更地になっていたので、本社(外削ぎ、平入と妻入の二棟)を横から撮影できた。
奥社(内削ぎ)は、なんとビルの屋上。
鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける(大伴家持)
説明書きには、鵲森宮の横を流れていた天野川を、天の川に見立て、難波宮の役人として勤務していた大伴家持が詠んだものとあった(今は、川も橋もない)