はじめに
聖徳太子(上宮法王)は馬と縁が深い人でした。厩(うまや)で生まれ、愛馬を石に彫り、馬子と物部氏を滅ぼし、推古女帝の摂政として飛鳥と斑鳩を馬で駆け、#甲斐の黒駒 と天を飛びました #厩戸皇子 #オシラサマ伝承
目次
本文
聖徳太子と馬
聖徳太子(上宮法王)は馬と縁が深い人でした。
急に産気づいた穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのこうじょ)が、近くにあった厩(うまや)で太子を出産したことから『厩戸(うまやど)』の名がついた話は有名ですね。(まるでイエスキリスト!)
明日香村を歩いてますと、幼少~青年の厩戸皇子(うまやどのおうじ)と馬の伝承がいくつか残されています。
なにしろ馬との強いかかわり、絆 とも言えるほどの強いものを感じます。
甲斐の黒駒
太子の愛馬、甲斐の国から献上された黒駒(くろこま)は、太子を乗せると天高く翔け、富士山を越えて信濃国をまわり、3日で飛鳥の京に戻ったという説話があります。
甲斐の黒駒の説話がデザインされた四天王寺・元三大師堂(がんさんだいしどう)のペットの御守り札。
太子のお供をしているのは黒駒を飼養した舎人(とねり、官人)の調使麿。描かれた足元が気になります。履き物?あれ、何でしょうか。
Wikiより抜粋)太子は推古6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜いた。9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると3日を経て都へ帰還した
古代蝦夷とヤマト文化がぶつかったところの太子信仰
甲斐の黒駒の 創話 は、飛鳥時代から本格的にはじまったヤマト王権の東国浸透、いわゆる後に、蝦夷文化との衝突に至った史実と文脈の中で考えるべきかと思います。
太子が馬に乗って空を飛んだ話と、父親に首を切られた馬に乗って天に飛んで行った娘、前回の遠野物語・オシラサマ(岩手県)の話。
ふたつの話には対応した関係があるようにも思え、次回、そのあたりをMAX(★★★)古代妄想。