古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
はじめに書いておくと、蘇我氏は疑わしいが、厩戸皇子(聖徳太子)は、その業績を残した方は居られるというのが私の前提だ。
ただ厩(うまや)で生まれた聖人像が史実かと言うと、それは新約聖書(イエスの生誕)をモデルにしたと考えている。
モデルにした人々、つまり記紀を編纂した人たちは、もちろん旧約聖書のアダムとイヴの神話(創世記)も承知していただろう。
彼らの都は極東(Far East)でシルクロードと繋がっていた。
平城京で新しい国づくりに取り組んだのは、当時世界でも有数の情報力を持ち、知識・技術水準を兼ね備えた人たちだ。(第一次遷都710)
(彼らの高い測量技術の例証。以下の記事)
国家の新しい思想、仏教(大乗)普及のためにヒーローが必要で、物部氏が千年近く築いてきた彼らの「価値観」を否定しなければならない。
しかし前回書いたように、眷属が多く生き残っている物部氏の名を挙げてダイレクトに批判することはできない。そこで、
勧善懲悪の物語を創作し、強烈なヒール・蘇我氏を生み出したというのが私の仮説だ
忠臣蔵は史実のひとつだが、後世に脚色・劇場化されるほど、より鮮明に人々の感情の記憶に残る。
歴史は繰り返している
さて吉良氏、もとい、蘇我氏の疑問
丁未(ていび)の乱(587)では、攻勢となった物部軍に太子軍は一時劣勢、太子がヌルデ(白膠木)の木で四天王の像を造り戦勝祈願をして戦線を立て直し、味方が放った矢が
大木によじ登って指揮していた守屋を射抜き、守屋は転がり落ちた
総大将を失った物部軍は総崩れになったと伝える。
戦後、物部氏の財産を四天王寺(太子)と二分した蘇我氏だが、ふさわしい馬子の武勲や戦功の記述はない。
ただ馬子の妻が物部守屋の妹であったことから相続権を主張し(やむなく)認めさせたという話だ。
物部氏の財産とは、ウォーターフロント(産業)、山部、海部であり、つまり、領域の支配権、商権、そして人=労働力。
繁栄を産み出す巨大なビジネスモデルであり利権だ
また別の視点では、
守屋が矢で射抜かれる光景はデジャヴ
あれっ?前にどこかであったような、というあの感覚
守屋と馬子の対立が決定的になったのは敏達天皇の葬儀での次のシーン (585)
葬儀で馬子は腰に刀を差して弔辞を述べた。その姿を見た守屋は小柄な馬子を「矢が突き刺さった雀のようだ」と馬鹿にした
矢が突き刺さった鳥のイメージ!
戦略家の編集者(太安万侶)はこのイメージを未来の読者に強調したかったのではないか。
守屋自身の未来、最後の姿を、馬子に重ねている?
二人が「二面石」のように、表裏一体、同一人物であることの暗示であるならば、本当に良く練られた演出だと思う。
太子の生誕の地、橘寺の境内に設置された「甲斐の黒駒」の像。もちろん近代に建てられたものであるが、神話的な活躍をした愛馬とともに仏教布教の事績を顕彰したものだ。
蘇我馬子のモデルは太子の身近、案外、甲斐の黒駒かも知れない
明日香・橘寺。厩戸皇子は生涯を通じて「馬」と縁が深い人であった。
私の原点(子ども時代の遊び場)、四天王寺さんの物部守屋祠の側にも、少年太子と馬が佇む木彫像がある。
残念ながら、今は祠に近寄れないので写真はない。
長くなってしまったので、もう少し、この話を続けます。
蘇我氏の実在を疑問に思う理由をもうひとつ紹介します。