はじめに
毎月22日、太子の月命日 #四天王寺 聖霊院(太子殿) が開放されます。境域に #守屋祠 とも云われる #願成就の宮。#物部守屋 御霊のほか #弓削小連 #中臣勝海連 を祀ります。#太子と馬像 #熊野権現 #布袋
目次
本文
前回の続き。
毎月22日太子の御命日に開放される聖霊院の境内
聖霊院の太子堂(八角の奥院は戦後再興)側から伽藍を撮影しました。
金堂の壁の「鷹のとまり木」(緑の鳥居型)がこちらを向いています。
奥院のそばに太子と馬像(おそらく黒駒)が納められた祠があります。
子どもの頃、このあたりは遊び場で、祠ものぞき込めたのですが、今は近寄ることができません。
祠の向こうの柳に隠れた赤い社が願成就の宮(がんじょうじゅのみや)
願成就の宮・守屋祠
御祭神:守屋大連(もりやおおむらじ)、弓削小連(ゆげのこむらじ)、中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)
聖徳太子かるた『も』守屋 矢で撃たれる/要約)用明2年(587年)丁未の乱(ていびのらん)。崇仏派・蘇我氏と廃仏派・物部氏の戦いの結末は、太子の部下の迹見赤檮(とみのいちい)の放った矢が物部守屋の胸に当たり、秦川勝(はたのかわかつ)が守屋の頸を切ったと伝わります。守屋の討死で蘇我勢の勝利となりました。聖霊院には物部守屋の御霊をお祀りする「願成就の宮」が建てられています
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摂津名所図会(1796-1798年、江戸期寛政年間)の「四天王寺」より。守屋祠に関するところ。
黄色線の起点が転法輪石。黄色の囲みが太子殿(方形殿)。現在はその延長線上に守屋祠は鎮座しています。(図絵では明記されていませんが矢印あたりと考えられます)
文字起こし)守屋祠 太子堂の後ろにあり 今参詣の者守屋の名を憎むや礫を投げて祠を破壊す 寺僧これを傷んで 熊野権現と表をうつ。祀る所、守屋大連、弓削小連、中臣勝海連の三座なり
さらなるナゾ
もともとここに至る私の古代妄想ウォークは四天王寺の熊野社を探すのがテーマで『熊野権現と表をうつ』で一応、確認できたのでしょうか。
しかし、どうも腑に落ちません。というのは摂津名所図会のものはおそらく江戸期の話で、河堀神社(四天王寺七宮の一)の熊野第一王子社の由緒の話とは明らかに違います。
寺僧にすれば、古くからの伝承があり、それに基づいて「熊野権現の表を打った」と考える方が自然です。まだ追いかけてみたいと思います。
実は、今回、守屋祠をあらためて見学して、さらに「こりゃマダマダ」と思ったことが、、、写真をよーくご覧ください。
七福神の 布袋(ほてい)さん ですよね。
姿かたちだけでそう考えるのも頼りない話ですが思い当たる節があります(聞いてみましたが今のところその由緒はわかりません)
四天王寺は大阪七福神巡りの布袋尊の札所で、布袋堂の門前に立て札があり、その内容が多少気になっていました。
西門の石鳥居近くの布袋堂の創建は593年。四天王寺の創建年と同じ。創建時には境内に布袋さん、あるいはその前身の何かを祀っていたのか。
太子の乳母が本来男性の布袋(乳布袋)。そしてその布袋の姿が守屋祠に飾られています。
またまた新たな謎の四天王寺さん。さすがです。
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先日、アラハバキ解で 福禄寿 を紹介した(35章)ばかりのタイミングでコレです。苦笑
七福神の成立には長い歴史の積み重ねと、それぞれに深い意味があるんでしょうね。
アラハバキ解(連載中~36章)