まとめ
明日香村 大字・立部。#聖徳太子(#厩戸皇子)建立の #定林寺跡(国史跡)があります。遺構だけの緑に囲まれた境域にぽつんとたたずむ立石の太子伝承。隣の #春日神社 拝殿にはユーモアたっぷり #石鎚突唄 が掲げられています
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本文
明日香村 大字 立部
聖徳太子(厩戸皇子)の誕生地と伝えられる橘寺(たちばなでら)の西約500メートルのところ、明日香村大字立部(たちべ)。
国史跡 定林寺跡
集落の奥に、聖徳太子建立四十六ケ寺のひとつ、定林寺跡が国史跡として保存されています。
ご覧のように、境域には、塔跡・土壇・礎石の遺構が見られる程度で、何もありません。
ひとつ、目に付く立石がありますが、これが厩戸皇子(うまやとのおうじ、うまやとのみこ)の愛馬のつなぎ石。
立部に来たのは、これがお目当てでした。
言い伝えでは、若き皇子が定林寺にいた尼僧つまり「いい人」に逢いに来るたびに、この石に愛馬(黒駒?)をつなぎ停めていたそうです。
(何をしていたんでしょうねぇ。笑)
明日香村には、歴史で伝えられる斑鳩(いかるが)時代の静々とした壮年の法王・聖徳太子ではない、愛馬にまたがり疾走する青年の厩戸皇子のイメージが残る場所がいくつかあります
(今なら、ホンダかハーレーダビッドソンにまたがって疾駆するイメージ。さぞかしモテたことでしょう。)
定林寺
現在の定林寺は近くにあります。
立部春日神社
定林寺跡の国史跡の指定にともない、やはり近くに移転した立部の春日神社。
春日神社に残された石槌突唄
拝殿内で面白いものを発見。御池に設置されたパネル解説版の原本のようです。
御池とは最初の地図にあるように、集落の高い所にある池で、ここの堤が壊れると、水がやってきますので、ふるくから築堤工事が行われてきたそうです。
築堤のことを刃金(はがね)というのですが、皆で声を合わせて、重い石を引っ張りあげてドスーン、を繰り返し、土を鋼のように固める重労働でした。
江戸期に唄われたようですが、集落の若い男女が総出で、ユーモアたっぷり子孫繁栄 の歌詞を拍子を合わせて唄い、辛い作業を少しでも和らげていたのでしょう。
(先日紹介した、山形県の花笠音頭も、尾花沢の徳良湖の築堤作業の唄が発祥。♪メデタめでたの若松様よ~ ♪枝も栄えて葉も茂る)
立部御池。古来から御池は灌漑用水のため池として地区の防水防火そして自然形態に欠くことのできない重要な機能を担っています。特に要(かなめ)であります築堤(刃金、はがね)は先人の方々の汗の結晶であります。その際、一糸乱れぬ結束に石槌突唄(伊予の瓢箪、いよのひょうたん)を唄ったと伝えられています
一、竹に雀は・しなよく止る・止めて止まらぬ・好色(エロいろ)のみち
一、伊予の瓢箪から・駒が出た出た・わたしゃ冗談から・暇が出た
一、うちの裏屋に・茗荷(みょうが)と蕗(ふき)と・茗荷目でたや・浮繁盛
一、伊予の瓢箪から・漕ぎだす舟は・波に揺られて・後戻る
一、うちの父ちゃん・お母(か)ちゃんと寝(ねや)る・わたしゃ小(ちぃ)ちょうても・一人寝る
一、伊勢は津でもつ・津は伊勢でもつ・尾張名古屋は・城でもつ