はじめに
四天王寺の南大門から徒歩五分。#四天王寺七宮 の一社 #土塔神社跡 は #土塔山超願寺 境内。蘇我馬子の子・慧観が聖徳太子から賜った経や舎利を納める三重塔を建て防火のため土で固めたのが名の由来。#人形浄瑠璃 の #竹本義太夫墓所 もあります #九曜紋
目次
本文
四天王寺七宮
聖徳太子(厩戸皇子)が四天王寺を創建する際の守護神として北斗七星を描くように並べたという説がありますが、実際に地図にプロットしてみると北斗七星のカタチはありません。
(現存しているのは大江神社、堀越神社、久保神社、河堀稲荷の4社。三社は大江神社に合祀されています。)
右の色別標高地図のプロットでは、四天王寺の創建時、七宮は低湿地で洪水が起こりやすいところ(濃い青色)との境に置かれていることがわかるため、古代のハザードマップではないかと紹介しました。
土塔は どとう と読みます。素戔嗚尊(スサノオ)が御祭神で、現在は大江神社に合祀されています。
もともとの神社跡は天王寺区大道(だいどう)の超願寺(ちょうがんじ)境内にあります。
伝承碑や案内板はありませんが、境内の方形の基壇が土塔神社跡。
大阪夕陽丘ライオンズクラブ編・夕陽丘(昭和58年)より)超願寺は聖徳太子が蘇我馬子の末子・慧観を住まわせたが、太子からいただいた経論や仏舎利を納める三重塔を建て、火災から守るため塔の周囲を泥で塗りこめたところから土塔山の名が残っている
寺伝)推古二十二年(613)二月、聖徳太子が阿弥陀仏一体を刻み安置し、父用明天皇の冥福を祈り、念仏会を修める。のちに蘇我馬子の季子(末子)慧観に授け、慧観はこれを超願寺と名づけ三重塔を建立。木像その他高麗僧慧慈より伝えられた仏舎利などを納め、のち火災を防ぐため泥を塗った
太子(釈迦)の仏法の教えをあらわす転法輪が、後の時代(鎌倉時代~中世)に九曜紋に転じたと考えています。
夕陽丘より)義太夫の始祖竹本義太夫は、天王寺村の百姓の家に生まれた。通称五郎兵衛、茶臼山町(アベノ橋北100メートルあたり)に誕生地の碑。家の畑が現在の浪速区日本橋(日東小学校)あたりにあり、毎日野良仕事をしながら大声で歌っているのを聞いた安居天神東の福屋(料亭)の主人で清水理兵衛。そんなに歌が好きなら正式に稽古してみないかと井上播磨の浄瑠璃語りの門に入り、やがて清水理太夫と名乗り、京都四条河原の興行に出演することになった。しかし飽き足らず、35才で大坂に帰り、井上播磨の古流を採り入れ義太夫節を案出。道頓堀で竹本義太夫を名乗り、竹本座をはじめ、近松門左衛門とコンビで新興の人形浄瑠璃を芝居を始める。語り出せば妙文は妙曲と相まって満都の喝さいを博し、苦節十余年、謡曲や歌謡の長所をとった独特の豪放な義太夫節は世に認められた。晩年は竹本座を竹田出雲にゆずり、正徳4年(1714年)9月10日、64才で没した