1960年代に関西の著名な考古学者・歴史学者が提唱し、1980年代以降、否定的な見解となった『河内王朝』(Wikiより)をご存じだろうか(現在は河内政権というほどのニュアンスでとらえられているのだろうか)
古墳時代、ヤマト王権を凌ぐほどの勢力が、大阪・上町半島(現在は上町台地)に都を置いたという勢力のことだ。
所在不明だった難波宮
ただその手掛かりとなる第16代・仁徳天皇の高津宮(こうづのみや)、36代・孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)、45代・聖武天皇の難波宮が、大阪のどこにあったのかが不明で、江戸時代以来、長らく論争の的であった。
明治43年になって、大阪城(天守閣)の南約500メートルほどの一帯、法円坂(ほうえんざか)の陸軍被服廠の工事で、地下2メートルから蓮華紋、重圏紋の瓦や唐草瓦の破片が数十個出土したが、当時は軍部の管轄下の土地であったため、それ以上発掘されることはなかった。
山根徳太郎(やまねとくたろう、1889-1973)
大阪生まれの考古学者。子どもの頃より古代難波の歴史に興味を持ち育った。
大阪市立大学を定年退官後の1953年(昭和28年)に、法円坂で始まった住宅建設工事で出土した鴟尾片(しびへん)から、奈良時代の大型建物の存在を予想、つまり、難波宮の存在を確信し、以来、周辺の調査を続けた。
後になって判明することだが、写真の通り、鴟尾片の発見場所は(後期=新しい)難波宮の太極殿から数百メートル離れており、この距離が山根の調査を8年間、足踏みさせた(発見場所と太極殿の間に建物があった)
一部の考古学者や歴史学者からは、長い間、新発見がないにもかかわらず、幻の難波宮を説く山根を揶揄して『山根宮』と噂する者もいたという。
1961年(昭和36年)、発掘調査と推理を重ねた末、後期難波宮の大極殿跡(土溝)を発見。
1962年(昭和37年)には大阪府の合同庁舎計画が持ち上がったが、山根を中心に組織された『難波宮を守る会』が反対運動をすすめ、昭和39年(1964年)ついに難波宮の中心部約5000平米が国史跡に指定され保護されるに至った。
河内王朝あるいは難波王朝について
山根徳太郎による難波宮の大発見に触発されて提唱され、萬世一系の日本書記に矛盾し『王朝交代説』などとして語られることも多い。
私個人は王朝が分裂した『南北朝時代』に近いイメージでとらえている。
少なくとも、古墳時代の一定期間、ヤマト政権のコントロールから離れた一大勢力が上町半島を拠点にしていたことは間違いない。
古代上町半島は「長い柄」のような形をしており「難波長柄豊碕宮」の「長柄」の由来になった。