女神アマテラスが岩屋に籠り、日本中が暗闇に包まれた「天の岩屋(岩戸)」の神話。
主なところでは宮崎県(天の岩戸神社)、三重県(二見興玉神社)に伝承地が残っているが、あまり知られていないが、実は京都市内にもある。
京都大学東側の吉田山、ふるくから神楽岡(かぐらおか)と称され、近くの神楽岡通りは、丘の名からついた。
吉田神社の神官家の『諸社根源記』には「天照大神が天岩屋に隠れた時、八百万の神々が集まって神楽を奏した地が、この地に天降って山となった」と伝えられている
「神々が集まる」イメージは出雲の「神有、かみあり」に近く、また、この伝承が『ここに参れば(神様が集まっているので)全国の神社に詣でることと同じ効験がある』と云われる境内社・斎場所大元宮(さいばしょだいげんぐう)造営に関係しているように思う。
吉田神社
御祭神:健御賀豆智神(たけいかづちのかみ)、伊波比神(いはひのかみ)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめのかみ)
平安京の鬼門にあたる神楽岡に859年(清和天皇、貞観元年)吉田神社が創建され、室町中期には吉田兼倶(かねとも)(卜部(うらべ)兼倶とも)が「斎場所大元宮」を造営、明治期まで日本の神道に影響力をもった「吉田流神道(唯一神道)」の本拠となった。(吉田神社・本宮前の立札を要約)
境内摂社 神楽岡社
境内北西の高い所に鎮座する摂社・神楽岡社は、吉田神社の創建以前の古社で創建は不明、大雷神(おおいかづち)、大山祇神(おおやまづみ)、高龗神(たかおかみ)を祀っている。
延喜式神名帳(延長5年(927年)の神社データベース)には『霹靂(へきれき)神祭三座(坐山城国愛宕郡神楽岡西北)』と書かれており、雷除けの神として崇敬されているという。
地主神(地元の神)とされるが、私が考えるに、大山祇神と高龗神は出雲の神様だ(高龗神は貴船神社(鞍馬)の御祭神。大雷神はわからないが出雲の可能性が高い)
神楽岡の周辺は縄文時代から人が住み続けていた
京都大学を含めた吉田山周辺と、北東の白川エリアでは10以上の縄文遺跡が報告されている(京大構内にも遺跡)
鴨川の東エリアで『鴨東、おうとう』ともいわれる。
神楽岡(吉田山)を中心におおよそ、東北の白川方面は縄文中期~後期、西の吉田方面は縄文中期~晩期(弥生前期)の遺跡。
縄文の人々が日本海側から浸透した地域には、必ずといってよいほど出雲族が同居し、イワクラや神名・地名にこん跡を残している。
例えば京都ではほかに下鴨神社(賀茂御祖神社)など(鴨=出雲、その祖神を祀る。出雲氏の支配地域)
こういう信仰のこん跡がたくさんの地域に残っていることから「縄文と出雲」は平和に習合したと考えている。
弥生前期~中期にあたり、まだ現在の神社という様式が確立される前の話だ。
縄文と出雲の習合ルート(主な例)
(参考、記事一部)古代出雲人は縄文人寄り(2020年1月15日、朝日新聞デジタル)
※記事はすでに消えていた。キャッシュからコピペ
古墳時代の出雲人は、同時代に関東で見つかった人骨や現代の日本人よりも、縄文人に近い遺伝子を持っている――。出雲市で発見された古代人骨のDNA解析※ から分かった。古代出雲では、大陸から来た弥生人との混血が進んでいない可能性がある(出雲市・出雲弥生の森博物館で昨年12月、猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代(3~7世紀)のものとみられる人骨のDNA解析結果の報告会より)※母系ミトコンドリア
百万遍と大元宮
京大キャンパス北に百万遍の交差点、地名は百萬遍知恩寺(知恩寺、京都市左京区田中門前町)からで、寺名の由来は「百万遍念仏」。
念仏を七日間で百万遍唱えると成仏できる信仰で、現実には難しいので、例えば「10人で10万回唱えればOK」という融通念仏が発祥した所。
この「融通の利く」考え方が、斎場所大元宮に似ていると思うのは気のせいだろうか。