玉造稲荷神社の長い歴史をご由緒にあわせて解説。
玉造稲荷神社・ご由緒(文字起こし。色文字部分)
古代勾玉作りの難波玉作部(なにわたまつくりべ)が居住していた地で、現在の(大阪)玉造の地名もこれに由来致します。
当神社の創祀は、垂仁天皇18年(BC12年)にさかのぼるといわれる古社であります。
玉作岡は難波玉作部(玉作職人)の集団居住地であったと云われている。
私が住む南の夕陽丘(四天王寺)あたりから、北の大阪城までの上町台地は坂と丘(岡)が繰り返す地形で、玉作岡もそのひとつ。玉造稲荷神社(玉造エリア)は大阪城の南側にあたる。
聖徳太子が物部氏と仏教の受容問題で争われた時、この玉作岡に陣をひき当神社に戦勝を祈願し、戦勝後この地に観音堂を建立されたといわれております。
聖徳太子が戦勝祈願し、成就した後、寺を建立した話は、四天王寺や朝護孫子寺(信貴山)のほか複数ある。
豊臣時代には大阪城の守護神として豊臣家の崇敬は特に厚く、境内の石鳥居も慶長8年(1603年)に秀頼公より寄進されたものであります。10月の祝日には境内で太閤さん時代の「だんご茶会」が盛大に行われます。
玉造稲荷神社は、豊臣時代の巨大な大坂城三の丸に位置し、徳川時代に現在の規模に縮小された後も御城の鎮守とされ、当時は「豊津稲荷神社」と称されていたそうだ(Wiki)
豊臣秀頼公は身長が197センチの威風堂々とした体躯で、慶長16年(1611年)、京都二条城で徳川家康公と会見した際、成長する秀頼の将来を懸念して家康は豊臣家の滅亡を決断したほど、とも云われ、伝えられるような「優柔不断」な人ではなかったようだ。
裏話っぽくなるが、秀頼公の実の父親は石田光成という噂は昔からあり、司馬遼太郎さんもエッセイでそのことに触れていた。
もしかしたら家康公、淀君と三成のことを知っていて、血統の正統性から豊臣家を廃絶することを最終的に決断したのかも知れない(背が低かった秀吉を考えればアタリかも)
淀君は厳島神社(宗像三女神)、中でも弁財天(弁天さま、イチキシマヒメ)を厚く信仰した人だ。
江戸時代の伊勢参宮本街道との深いつながりも「暗超(くらがりごえ)、奈良街道」の要地にあったためであります。
久しぶり、大阪から暗峠を超えて、奈良まで行ってみたくなってきた。笑
お伊勢さんへは三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)に先参りしてから向かうのがミソ。
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記事を書いていて気が付いたが本殿は狛犬。写真にはかろうじて境内・石鳥居の万慶稲荷・新山稲荷社に狐さんが写っていただけ。もちろん千本鳥居もない。実に稲荷社らしからぬお稲荷さんだ。