鴨川と高野川の合流点「河合」。現在は公園。右から鴨川、左から高野川。現在は公園。
下鴨神社と上賀茂神社(賀茂別雷神社、かもわけいかづちじんじゃ)では境内を流れる水が違う。
鴨川に沿って約4キロ上流の上賀茂社は山腹斜面にあり、境内の流れは「川」のイメージ。
一方、下鴨社は平地に近い斜面に南北に長く、境内の流れはゆるやかな「せせらぎ」。
現在、鴨の水は境内を流れていない
井上社・井戸から船島を流れる「奈良の小川」は手水舎付近・南口鳥居の南の橋から「瀬見の小川」に名を変える。
下鴨神社の西側を「瀬見の小川」、境内東側を「泉川」が流れる。
● 瀬見の小川は、井上社の井戸から湧く「奈良の小川」が源流。
● 泉川は下鴨神社北部(岩倉一帯)松ケ崎の末刀岩上神社付近を通り、下ってくる。
末刀岩上神社は「大炊殿」のイワクラ「水ごしらへ場」の立て札に書かれていた式内末刀社のことで「水の神」を祀っている。
少し意外だが、現在、下鴨の境内には、鴨川の水は流れていない(泉川は高野川が源流)
(左)奈良の小川。階段状のみそぎ場。立っている橋の下から瀬見の小川に名を変える。
(右)泉川。烏の縄手・切芝の付近
謎?の短歌
石川や 瀬見の小川の清ければ つきも流れを たづねてぞすむ(鴨長明)
詳しくないので解説はWikiから(要約)
下鴨社の歌合で神職のひとりだった長明が瀬見の小川に映る月の美しさを詠んだ歌といわれる。歌会では賀茂(鴨)の支流が瀬見の小川と呼ばれることを他の参加者が知らなかったために負けた。ところが長明は後に社の縁起にその旨の記述があることを公にし、「神社の秘事を明かすとは何事か!」と、他の神職たちに批判されながら、自分の歌が正しいことを主張したという。この短歌は人気を博し、後に「新古今和歌集」に収録された。
気になるのは「石川」。石川という名は下鴨周辺にない。枕詞だろうか?
泉川(の末刀岩上神社)のように、イワクラのある社から流れ出す水を暗示しているように思える。
あるいは、石組の暗渠(あんきょ、地下水道)で鴨川から水を引いていた(いる)のだろうか?
古代・井上社は「河合」にあったので、瀬見の小川の源は、鴨川からの、今とは別の水だった可能性は高い。
御祭神・賀茂建角身命(かもつぬみのみこと)が「瀬見の小川」と名付けたと「風土記」山城国逸文に伝えられている。この時に井上社の移動、小川(水路)の付け替え等が行われた可能性がある。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
長明さん、「古代出雲のクニ」の「陰」の歴史を身をもって知る人だったのかも知れない。
鴨が賀茂に逆転された歴史、をだ。
鴨長明という人
「ゆく河の・・・」の書き出しで始まる方丈記(ほうじょうき)の作者、鴨長明(かものちょうめい、1155~1216年、平安末期~鎌倉初期)。
下鴨・河合神社の禰宜(神職)の次男として生まれた。子どものころから学問に秀で、とくに歌道に優れていた。
はたちのころ、失脚した兄に代わり禰宜になるチャンスがあったが叶わず宮中への出仕を続けた。
40代半ばに後鳥羽院に見い出され、歌会や催しに和歌を献じるようになり、宮廷歌人として御和歌所の寄人(おうたどころのよりうど)となった。
琵琶、笛、琴にもたけた人で、当時の風流の最先端を行く人だったようだ。
49で念願の河合社(ただすのやしろ)の神職に就く寸前だったが、当時の下鴨の禰宜の強硬な反対に遭い、再び叶わず。
「石川や・・・」のてん末を読めば、そりゃそうだろうと思うところもある。迎合するには才に長けすぎていた。
やがて宮中を辞し、50で洛北大原に隠とん生活を始めた後、世の無情と人生のはかなさを「方丈記」に記す。
58で現在の京都市伏見区あたりに落ち着くが、それまで転々とする間、棲家として仕上げたのが一丈(約3メートル)四方の方丈。
移動に便利な組み立て式の小屋で土台の上に柱が建てられる土居桁の構造。
21年ごとに式年遷宮で社殿が造替されるため土居桁で造られている下鴨本殿をヒントにしたそうだ。
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長々となってしまったが、下鴨神社シリーズはこれでいったん終わり。
謎かけの多い案内板や立て札に導かれ、書いてきた。今の下鴨さんにも、長明さんの意識が脈々と続いているような気がする。実体を確かめた訳でもないがそう感じる。
これから、京都北部「古代の出雲のクニ」に目を向けてゆきたいと思う。
その中で、あらためて下鴨さんのことを取り上げる場合、連番で書いてゆきます。
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