古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
前回(7)の終わりに「物部氏が滅んだ瞬間に古墳時代が終わる」と書いたが、正確にいうと「前方後円墳」のことだ。
丁未の乱(587)で物部氏が消滅して以降、前方後円墳が新たに造られることはなくなった
※(挂甲の武人さん)千葉県(関東?)では小型の前方後円墳がしばらく造られていたそうです(コメント欄参照)
勝者となった太子(叡福寺北古墳)、推古天皇(山田高塚古墳?)とも方墳で合葬、巨大な前方後円墳に比べてずいぶん質素なものだ(礒長谷古墳群)
646年の大化の薄葬令より以前に、暗黙の同意、いわゆる不文律として、ヤマト王権では前方後円墳を造らなくなったのだろう。
理由は2つ。華美でぜいたくであること、第二・第三のモノノベ氏を出現させないこと。
このような「点」を「線」で結んで推理すると、
物部氏は、前方後円墳を一手に引き受け全国で造り続けることで、ヤマト王権を凌ぐほどの財力と組織力を築いた
百舌鳥・古市古墳群の巨大前方後円墳を地上に咲いた「華」に例えるなら、咲かせたのは最盛期の河内期・物部氏だ。(倭の五王時代がピーク)
大量の労働力を手配し、海上輸送力を駆使、鉄原料などの戦略資材も調達し、職能集団(溝咋(みぞくい=土木)、埴輪、各種副葬品、石工)をコントロールする。
あれだけ巨大なものを、数百年にもわたって造り続けるには、それだけのパワーが必要だ。
近つ飛鳥博物館(大阪府南河内郡河南町)では巨大前方後円墳の造り方や構造を詳しく見学することができる。
仁徳天皇陵の造営には16年の歳月、延べ680万人の労働力が必要だった。ググれば大林組の試算データを見ることができる。
物部氏が飛鳥のヤマト政権と距離を置き、河内に拠点を築いたのは、当時辺境(クニのサカイ)で、人が住んでいない広大な沖積平野に前方後円墳を造り続けることができたからだ。
古墳造営に奴隷的な使役があったとは聞いたことがないしその証拠もない。
おそらく、というかほぼ間違いなく、この時期に半島から新天地を求めて入植者が大量に流入した。
(それがどういう人たちだったのか?そのあたりはまたあらためて書きたいと思います)
エジプト・ピラミッドの公共事業説の一枚上手をゆく「前方後円墳ビジネスモデル」を創り上げていたのではないだろうか
入植者も含めて、人々は「労働対価、分け前のある仕事」として参加していたのだ。
デコボコの土地を平らにならし、水田にし、余った土砂を積み上げて墳墓にする。
労働者はそこに定住しコメをつくる。
職能集団は仕事が途切れることがないぐらい忙しい。
物部氏に墳墓を依頼する王にも多大なメリットがある。
国土と民と水田がトリプルで増え、税収(年貢)が上がる。
しかも物部氏の祀りとともに前方後円墳に埋葬されれば、さらに豊かで大きくなったクニの王として復活することができる。
なぜなら墳墓の〇は「母」、△は「父」、ふたつが合体して母胎に戻った王はクニウミ(八十島=浮島)の玉(魂)により復活できるからだ。
物部信仰の核心は男女一対の神(生玉・足玉)のクニウミ思想。そして浮島。これらを前方後円墳というカタチにシンボル化して発展させたと考えた。
王は母胎の中心に埋葬される。(一部△部に埋葬されているケースもあるがごく少数)
ビジネスモデルの構築に最も大切な条件、かかわるすべての人が得をするWIN‐WINの関係
困るのは中央集権を目指すヤマト政権だけ
古墳(前方後円墳)時代は西暦250-600年。約350年の間に全国に五千基前後も造り続けられた背景を考えなければならない。
1年に平均15基、日本のどこかで造られていた計算である。
物部氏に手配された職能集団が現地に入り、造営作業にかかわっていたと考えられる。
現在のゼネコン(総合元請けの建設会社)と同じだ。
中にはそこに定住したり、自分たちの故郷の地名をつけたりすることもあっただろう。
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