昨日の記事で、ブロガーさんに教えていただいた全国前方後円墳データベースを見ていた。
ちなみに私は千葉県が前方後円墳の最多県であることを知らなかった。
しかし、面白いものを教えていただいた。こういうものがあったのか!と知るだけでもブログを始めた甲斐がある。
古代のことをあれこれやり過ぎて、手薄になっているところもある。勉強不足をおぎなうために、とりあえず千葉県の前方後円墳(664ケ所)のリストを作り、
このリスト(エクセル)をグーグル地図にインポートして2種類のマップを作ってみた。
(以前有料だったが今や無料だ。ありがとうグーグル先生)
左:古墳の長さが50M以上の大型古墳(約100)。右:49M以下のマップ(約460)
50M以上の方を、縄文時代の海進極頂期(今よりも海抜が5メートル高かった時期)の地図にプロット。手作業のため多少誤差はあります。
もちろん縄文時代には古墳はないので地図は参考まで。この後、海が退いて現在の海岸線まで土地が広がったというイメージで見てください。元地図は荒川区史さん
前方後円墳は「生玉・足玉、八十島=浮島、クニウミ信仰」の物部氏(モノノベさん)の様式で、弥生の海退期に河口の土砂の堆積でつくられた沖積平野に造営(クニ造り)されたと考えているが、関東(千葉)でも、同じことが言えると思う。
九十九里浜側の台地(高台)水際に造営されたグループはあるが、
東京湾の千葉県側(沿岸型)、先日車で走った東関東道沿い(内陸型)、概ね、古代の水際に沿って分布している。
おもしろいのは九十九里浜の沿岸部の平野にはないこと。
予想と違ったので最初は??だったが、よく考えてみれば、このあたりは太平洋から運ばれてくる砂で形成された土地で、沖積平野ではない。サラサラした砂質中心で、墳墓を積み上げるのに適さなかったのだろうか。
時間を見つけて茨城県もやってみようと思う。
弥生期、関東のクニ造りは千葉・茨城の東側から始まったイメージ
香取神宮が拠点だったと思われる。 (経津主神(ふつぬしのかみ)がご祭神。フツは物部氏をあらわす)
なお、前方後円墳の発祥地の奈良盆地、御所(ごせ)~三輪時代には、中央部は広大な湖または湿地帯(古代大和湖)で、弥生時代に現在のような内陸平野になった。
奈良は「内陸部でのクニウミ」であり、ゆえに、水辺の段丘や高台に初期の前方後円墳が造られている。
考古学士の論文ぐらいになるだろうか?・・・ならんか。