はじめに
四天王寺伽藍中心の #転法輪石 春分・秋分に日の出・日の入の方位を指します。東の日の出ライン上に #物部守屋祠。さらに1.8キロ先に #御勝山古墳(後円部の墓域中心)さてこれは偶然でしょうか
目次
- 四天王寺境内・転法輪石の東に守屋祠
- さらに転法輪石の東1.8キロ。御勝山古墳(おかちやまこふん)
- 御勝山古墳(大阪市生野区勝山北)墳長120m
- アラハバキ解 第39章公開 ヒスイのものづくり史(3)見えてくる弥生稲作・太陽祭祀の東遷
本文
四天王寺境内・転法輪石の東に守屋祠
はじめての方の参考。新説・四天王寺シリーズ直近の記事。
守屋祠/願成就宮
さらに転法輪石の東1.8キロ。御勝山古墳(おかちやまこふん)
四天王寺伽藍中心の転法輪石は、春分・秋分に日の出・日の入の方位を指します。創建よりここで太陽祭祀が行われたこん跡です。
その転法輪石が指し示す東のライン上に御勝山古墳。
つまり、四天王寺からは、春分・秋分の日に、御勝山古墳・後円部中心から日が昇るように見えます。
はたして、これは単なる偶然でしょうか。
※地図色(国土地理院地図、色別標高図)の見方。①青=標高5m以下、②中間色=標高5-10m、③水色=標高10m以上。四天王寺創建時、上町半島付近は今よりも水位が数メートル高く、①青色部分は水域または低湿地(潟)、②中間色部分は水辺、③水色部分は平地~低い丘陵。地図中〇は先日紹介した久保神社(もうひとつの願成就宮のあるところ)
標高図のとおり、四天王寺創建時(593年)には、水域または低湿地帯に突き出した水辺の小丘に御勝山古墳(5世紀、西暦400年代、前半)がすでにありました。
御勝山古墳が小丘になったのか、水辺の小丘に古墳が造られたのか、それは今のところわかりません。しかし当時、水辺が後退して生まれつつある河内平野を臨むところに御勝山古墳があった ということは特筆すべきことです。
四天王寺が、その御勝山古墳を基準(春分・秋分、日の出の方向)に伽藍が決められた可能性があるからです。
左から三番目(古墳時代中~後期ごろ、約1600~1500年前)の地図が御勝山古墳が造られた時期の様子(大阪歴史博物館パネルをもとに作成)
(旧大和川は、大阪平野に入ると河内湾(河内潟)に向けて北上し、現在の大阪城南側を通って海に)
大阪市史跡案内)岡山ともいわれ、前方後円墳であったと推定される。前方部は道路(勝山通、かつやまどおり)と公園に姿を変え、西側は周濠の名残りをとどめるのみである。5世紀前半の遺物が出土しているが、被葬者は不明である。大坂冬の陣のとき、徳川秀忠の陣所になり、戦勝を記念して御勝山と呼ばれるようになったという
続きます。(次回近日中)
アラハバキ解 第39章公開 ヒスイのものづくり史(3)見えてくる弥生稲作・太陽祭祀の東遷
キーワード;玉作の産地と消費の動き、弥生稲作文化の広がり、太陽祭祀の東遷