四天王寺が創建されたころの大阪の地形図。
現在とずいぶん違う。内陸型と違い、沿岸型で文明が発展した日本の古代を考えるときの基礎だ。
古大阪湾(難波江、なにわのえ)に対して、上町半島が先端に砂州をつくりながら北に伸びてゆき、それに伴って、東側の水域が河内湾(海水)から河内湖(汽水⇒淡水⇒湿地帯)に急激に変化していた時期である。
(2つの矢印)淀川と大和川が運ぶ大量の土砂が上町半島の伸展でせき止められ、自然の埋め立て、沖積が進んだ結果、現在の大阪平野の大部分が形成された。
「クニウミ、国生み」のわかりやすい例だと思う。列島沿岸、津々浦々で同じようなことが起きていた。
門真(かどま、大阪府)や石切(いしきり、奈良県)で名産のレンコンはその名残だ。
岡田准一くんのひらパー兄さんで有名な枚方(ひらかた)は、ふるくは枚潟(ひらがた)であった。
大和川は、北に向かって排水する氾濫河川だったが、江戸時代にわずか7ケ月の工事で付け替えられたことから、地図では新大和川とされている。
さて本題。前回、創建時の四天王寺が「東」を意識していた話。
黒い点線で囲んでいるところが、物部氏が支配していたエリアだ。
四天王寺から東側全域、古大阪・河内湾のウォーターフロント、それに上町半島は物部氏の支配下にあった。
上町半島一帯は海上交易の要(かなめ)、金の成る木で、「河内で発展した時期」の物部氏の力の源泉であった。
主な輸入品は、朝鮮半島産の鉄鋌(てってい、ねりがね)という鉄加工品を作るための短冊形に規格化された原料だ。海外から原料を調達し最終品に加工する。
今でいう、サプライチェーンを確立していた。
話はそれるが、豊臣秀吉が大阪城を上町にしたのも、当時の日本で最も有利な交易拠点と見なしたからだ。秀吉は物部氏のマーケティングをよく知っていたと思う。
587年、物部宗家の拠点があった現在の大阪府八尾市(太子堂)あたりに攻め込んだ太子軍は、激しい戦いの末、物部軍を破り、紀元前から権勢を誇った物部氏はついに滅亡した。
丁未の乱(587年)
日本史でも稀有な、約九百年にわたる物部氏の歴史が終わった瞬間である。
二上山はサヌカイトの産地で、鋭利に割れる性質があるため、矢じりの原料としても利用されていた。
山から降ろされた矢じりが、枝と尾をつけて矢に加工されたのが、現在の八尾である。
図では物部守屋敗戦地の周辺が八尾市である。
隣接する東大阪市、大阪市平野区の一帯は、大阪の「ものづくり」の中心であり中小企業の街である。
こうして考えれば、始まりは、物部氏の時代にまでさかのぼることができる。
古代のウォーターフロントを走るJR関西本線沿線、国道25号線沿いには、加美(かみ)や鞍作(くらつくり)など、ものづくりに関連した古い地名が残っている。
加美とは、Decoration、装飾、の意である。
司馬遼太郎さんは、二上山の近く、竹内街道の親戚農家で過ごした少年期、畑を掘ればそこかしこから小さな石の矢じりが出てきて、それを集めるのに夢中になったという。
そんなちっぽけな、子供のポケットに入るような石の矢じりで戦かっていた古代がせつなくなった、というようなことを書かれていたと思う。
司馬少年のポケットにたくさん収まった切なくなるほど小さな石の矢じりは、その後、強くて鋭利な鉄の矢じりに進化してゆく。それを主導したのが物部氏だ。
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※古地形の元画像は水都大阪HPから拝借した。前後の時期の画像もあるので、興味のある方は覗いてみてください