古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
前回、ヒスイ勾玉と物部氏には「ある特別で重要な関係」が推理され、実は、それが物部氏(宗家)が徹底的に滅ぼされ、ヒスイが隠ぺいされた理由ではないかと考えている、と書いた。
前回記事
古代の経済学の基礎(成り立ち)
答えの前に物々交換から始まった古代の経済のことを少し。
物々交換の経済は「モノ」と「流れ」と「交換(場)」で成り立つ(商品―流通―市場)
縄文中期にヒスイ大珠・小珠が北・東日本に広がったのは、それぞれの集落に交換の場、市場(いちば、マルシェ)ができていたのだろう。
縄文海人の行き来で、黒曜石・サヌカイトなどの石器のほか、南洋の貝殻加工品が北海道で出土するなど、広く分布した。
なお、縄文中期(約5,000年前)には、例えば、三内丸山(青森県)の大型竪穴住居の用途が「交易」であるならば、モノの交換だけでなく、飲食や宿泊などのサービス業もあったことを意味する。
ヒスイと鉄鋌(てってい)
一気に時代は下るが、鉄鋌(てってい)とよばれる鉄製品が、河内・物部氏が栄えた近畿中央と、韓半島南部で多く出土し、活発な交易があったことを示している。
鉄鋌は、工具・農耕具・武具などをつくる中間原料として使われたほか、財的な価値があると考えられたようで、前方後円墳に副葬されている。
面白いのは、取引してから海路を運びやすいように、あらかじめ決められたサイズ・重量に揃えられている点。
規格があったということは、秤(はかり)取引があり、今でいうところの交換取引市場(しじょう、マーケット)があったことを意味する。
物部氏は、このある種「通貨」のような鉄鋌を「輸入」し利益を得ていた。
さて問題は何を「輸出」し、鉄鋌と交換していたのか。
ヒスイ(勾玉、原石)の可能性が非常に高い
半島北部(楽浪郡)で国境を接する当時の中華王朝でもヒスイ(硬玉)を珍重していて、最高品質の糸魚川産のヒスイの需要は十分にあったはずだ。
続きます。