はじめに
真脇遺跡は能登半島の先端。漁労、狩猟、採集の多様な手段で一年を通じて食糧を確保し #縄文海進 ピーク後の #海退 と #やや寒冷化 をも乗り越えて、四千年という「超」のつく長期定住集落として存続した遺跡 #お魚土器 #ウッドサークル
目次
- 真脇遺跡(国指定史跡、石川県能登町字真脇)
- 豊かな食糧が支えたギネス級の長期定住集落
- ウッドサークル
- 縄文時代は太陽暦
- 漁労・狩猟・採集。そして第四の食糧源
- アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る(2020年12月、始めました)
本文
真脇遺跡(国指定史跡、石川県能登町字真脇)
昨年の秋(11月)に、能登半島の北の真脇遺跡(国指定史跡、石川県能登町字真脇)を見学してきました。
能登半島の北端、漆器(輪島塗)で有名な輪島とは約40キロ離れた車で約1時間のところに位置します(遠いです。笑。)
(付属施設として真脇遺跡縄文館があります。中心展示物での撮影写真の公開は禁止されています。個人の研究利用が目的であるとの申請書を提出すれば撮影は可能です。)
豊かな食糧が支えたギネス級の長期定住集落
縄文の前期初頭(7000年前)から晩期終末(2800年前)まで途切れることなく遺物・遺構が出土していることから、4000年にわたって人々が継続して生活していた 遺跡です。
世界史的にみても、人の居住した遺跡としてはギネス級の長さで、それはなぜかというと、漁労・狩猟・採集で、食糧が一年を通して途切れることなく、また気候変動(海退とやや寒冷化)によっても尽きることがない、バラエティ豊かな食糧が確保できたからです。
イルカ・クジラ・マグロ・サメなど、シカ・イノシシなど、さらにはクルミ・トチ・ドングリなど、動植物の骨やこん跡が大量に残されています。
愛称「お魚土器」の口縁部4ケ所には、魚のパクパクした口が造形されていています(鯉にエサをあげるときにパクパクしているあの感じ。土器を上から覗き込むとユーモラス)
側面に、厚く丸く表現されているのは「ウロコ」のように思えますね。いかにも縄文的なデフォルメといいますか。。。
この他に、浅鉢に鳥のデザインが付いた「鳥さん土器」もよく知られています。
ウッドサークル
縄文時代は(太平洋側の都市を中心とした現代とは逆で)日本海側のさらに海に近い所が最先端の交流集落だった ことを真脇遺跡は示しています。
出土品からも、日本の東西南北をつなぐ、海路・陸路の一大拠点であったことがわかっています(真脇式土器の分布エリアは、石川・富山、新潟・秋田の日本海側、群馬・長野・埼玉・東京・神奈川)
縄文の港町・青森市の三内丸山遺跡もそうですが、日本海のこういう場所には大型木造構造物が建てられており、そういう意味で、単なる祭祀施設というよりも、こちらから海の遠い所を見晴るかし、また、海上からの目印にもなる実用的な建物だったのではないかと考えています。(大きな丸い木を半分に割って、平たい面の方を外側に向けて円柱状に並べています。そうすることで遠くから目立ちます。
前回の真脇の記事でも紹介しましたが、木材を組み合わせて建てるのに必要な「ほぞ」加工された木材が出土(2015年)しており、ウッドサークルも含めて、真脇には二階、三階のある建物が建てられていた可能性があります(であれば、火を灯していた可能性も高くなります)
縄文時代は太陽暦
もうひとつ考えられるのはカレンダーとしての役割。
建造物に対する日の出・日の入りの方向や、日の高さ(影の長さ)で季節や時間を読むことは、漁労、狩猟、採集には必要とも考えられ、円柱列は適していたのでしょうか。
漁労・狩猟・採集。そして第四の食糧源
真脇では、漁労・狩猟・採集のほかに、もうひとつ、第四の手段 が行われていた可能性が考古学によって見い出されつつあります。
その方法は、三内丸山で発見されたクリの管理栽培よりも、さらに先進的なものでありました。次回に続きます。
ストーンサークルのある大森勝山遺跡(青森県、津軽・岩木山の麓)
アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る(2020年12月、始めました)
当ブログは日々のテーマで、多いときは十数話シリーズで書いていますが、どうしても書きっぱなしになりがち。そこで、2019年4月からブログを始めて、大きなテーマも見えてきたこともあり、長めのルポ風は投稿サイトで、別途、作品化することにしました。
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