ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

日本の謎の古代史(6)津軽平野 亀ヶ岡・十腰内文化 高度な古代文化のこん跡(2)

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岩木川 十三湖

前回の続き。

十腰内は「とこしない」

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Googleマップをみて、海退期(三千年前~二千年前)の津軽平野を想像してみよう。緑の濃い薄いで見る。

三千年前、海が最も深かった頃よりも4~5メートル海が浅くなり、現在の海岸線一帯(七里長浜、防風林がある)は海底から露出した砂丘半島、東側は大きな「内海」または「潟」だった。

それから一千年かけて、岩木川が上流から土砂を運び、内海は塩水潟から淡水潟になり、やがて、稲作に適した大きな沖積平野、現在の津軽平野になった。

岩木川の最下流に出口を塞がれた水が溜まり「十三湖」(気水湖)になっているのは、出雲(鳥取)地方の「中海」と同じだ(米子にも古代の砂丘半島=弓ヶ浜がある)

縄文晩期~弥生早期(紀元前1000年前後)には、こういう平野に人が集落(ムラ)をつくり、人口密度が上がるため、効率のよい食料の調達、生産が必要になる。

水田稲作の「弥生スタイル」はこうして始まり、それは、二千年後の今でも基本的に変わらない。

高度な文化のその後を考えてみる(2)★

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

さて、山内丸山遺跡の縄文文化と豊かな生活を創った人たちは、海が遠くなり、クリの栽培ができなくなったムラを棄て、どこへいったのか

三千年前、自然に考えれば、寒冷化しつつあったので北に向かうことはない。一山越えた西の海(潟)側、平野が生まれている所に移住し、

そして、その子孫たちが、日本海交易の海人(移動する人々)と混じりながら、亀ヶ岡や十腰内(とこしない)文化をつくったのではないだろうか(今のところ考古学的証拠がないため★)

海人にとって、弓浜状の海岸線(七里長浜)の内側、特に十三湖一帯は、静かな浅い水域、長く厳しい海路の舟泊まりに適した場所だったはずだ。

個人的に、十三湖岩木川周辺には、縄文から弥生への移行期の未発見の遺跡、それも三内丸山クラスの重要なものも含めて、かなりあると妄想している。

亀ヶ岡物

亀ヶ岡遺跡周辺から出土した土偶・土器は、江戸時代に「亀ヶ岡物」、趣味の対象として1万点以上が盗掘・蒐集され、海外(オランダ)にまで売られたという(Wiki

今でも遮光器土偶(シャコちゃん)の人気を考えれば、うなづける話。

古代の人々の切実な祈りの祭祀具。

ただし、そのユニークで芸術性の高い表現は、食料や生存に余裕のない生活からは生まれない。

精神的にも物質的にも、ある程度満たされた、豊かな生活が前提だ。

そういう意味でも、三内丸山の縄文文化が、津軽の亀ケ岡・十腰内文化に引き継がれていると思う。

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祈りの考古学展(天理参考館)より

展示は終了。出土地。(常設)は参考館で常設展示

(左)土偶青森県三戸町(常設) (右)土偶青森県三戸町

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天理参考館 祈りの考古学展

(左)土偶岩手県軽米町 (右)土面、岩手県雫石町(常設)

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天理参考館 祈りの考古学展

北海道・北東北の縄文遺跡群

jomon-japan.jp

北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道、青森、岩手、秋田の4道県・18遺跡エリアで構成される。

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