前回の続き。
十腰内は「とこしない」
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Googleマップをみて、海退期(三千年前~二千年前)の津軽平野を想像してみよう。緑の濃い薄いで見る。
三千年前、海が最も深かった頃よりも4~5メートル海が浅くなり、現在の海岸線一帯(七里長浜、防風林がある)は海底から露出した砂丘半島、東側は大きな「内海」または「潟」だった。
それから一千年かけて、岩木川が上流から土砂を運び、内海は塩水潟から淡水潟になり、やがて、稲作に適した大きな沖積平野、現在の津軽平野になった。
岩木川の最下流に出口を塞がれた水が溜まり「十三湖」(気水湖)になっているのは、出雲(鳥取)地方の「中海」と同じだ(米子にも古代の砂丘半島=弓ヶ浜がある)
縄文晩期~弥生早期(紀元前1000年前後)には、こういう平野に人が集落(ムラ)をつくり、人口密度が上がるため、効率のよい食料の調達、生産が必要になる。
水田稲作の「弥生スタイル」はこうして始まり、それは、二千年後の今でも基本的に変わらない。
高度な文化のその後を考えてみる(2)★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
さて、山内丸山遺跡の縄文文化と豊かな生活を創った人たちは、海が遠くなり、クリの栽培ができなくなったムラを棄て、どこへいったのか
三千年前、自然に考えれば、寒冷化しつつあったので北に向かうことはない。一山越えた西の海(潟)側、平野が生まれている所に移住し、
そして、その子孫たちが、日本海交易の海人(移動する人々)と混じりながら、亀ヶ岡や十腰内(とこしない)文化をつくったのではないだろうか(今のところ考古学的証拠がないため★)
海人にとって、弓浜状の海岸線(七里長浜)の内側、特に十三湖一帯は、静かな浅い水域、長く厳しい海路の舟泊まりに適した場所だったはずだ。
個人的に、十三湖~岩木川周辺には、縄文から弥生への移行期の未発見の遺跡、それも三内丸山クラスの重要なものも含めて、かなりあると妄想している。
亀ヶ岡物
亀ヶ岡遺跡周辺から出土した土偶・土器は、江戸時代に「亀ヶ岡物」、趣味の対象として1万点以上が盗掘・蒐集され、海外(オランダ)にまで売られたという(Wiki)
今でも遮光器土偶(シャコちゃん)の人気を考えれば、うなづける話。
古代の人々の切実な祈りの祭祀具。
ただし、そのユニークで芸術性の高い表現は、食料や生存に余裕のない生活からは生まれない。
精神的にも物質的にも、ある程度満たされた、豊かな生活が前提だ。
そういう意味でも、三内丸山の縄文文化が、津軽の亀ケ岡・十腰内文化に引き継がれていると思う。
祈りの考古学展(天理参考館)より
展示は終了。出土地。(常設)は参考館で常設展示
北海道・北東北の縄文遺跡群
北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道、青森、岩手、秋田の4道県・18遺跡エリアで構成される。