まとめ
物部氏、忌部氏は古代王朝で祭祀を行う一族で、それぞれ玉作の職業集団を有していました。物部系の玉祖連は400年代の難波と河内、忌部系の玉作集団は500年前後のヤマトで、活動のピーク期とエリアは異なります
目次
本文
難波玉作部は物部★★
玉祖神社(八尾市)と玉造稲荷神社(大阪市中央区)は玉祖道(たまおやのみち)で繋がっています。
玉祖神社の御祭神・玉祖命は三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を造ったと、神社の由緒に書かれていました。
天孫降臨では、五伴緒神(いつとものおのかみ)として随伴した玉祖連の祖神。
ふるい時代、「連、むらじ」はモノノベ系の呼称です。
八尺瓊勾玉は月読命をあらわすと考えていますが、稲荷神社の前は、月読命を祀る社だったかも知れません。
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
両社ともヒスイ加工に関わる工房と職人集団が住まう地域の氏神で、同時期に発展したことでしょう。
古墳時代中期、西暦400年代の『和(倭)の五王』の時代*1に発展しました。
当時は大型前方後円墳(百舌鳥・古市古墳群)が築造されるとともに、古墳造りに従事した大量の人口を養うために、周囲の平野部で水田造りが急ピッチで進められた時代です。
道具造りに必要な大量の鉄を調達するために、古代中国王朝で重宝された糸魚川(奴奈川)特産の硬玉(ヒスイ、碧玉)を、難波の住吉津から、半島のマーケット経由で輸出し、輸出港に近い摂津・河内に加工拠点を置いたと考えられます。
このビジネスモデルを構築し、実際に運用したのが、祭祀と軍事の一族・物部氏で、最盛期には王朝を越えるほどのパワーを持っていました(難波期の物部氏)
しかし、人の歴史で永遠のものはありません。
古代日本の半島の拠点であった伽耶国(かやこく)任那(みまな)は、東の新羅(しらぎ)からの絶え間ない侵略で衰退し(562年に滅亡)、最終的に大陸への輸出販売ルートを失います。
それとともに難波の玉作部は急速に衰退しました。
その終末期、敏達大王の時代に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が造られたのではないかと考えています。
その製作を以て、難波の玉作部は終了し、歴史の舞台から消えたのかも知れませんね。
ヤマト曽我の玉作は忌部★★
奈良県橿原市を南北に流れる曽我川にそって、忌部と名がつく町名に、忌部玉作の氏神・天太玉命神社(ふるくは忌部神社)があります。
忌部氏の祖・天太玉命も五伴緒神の一人として、天孫降臨に随伴したとされています。
神社の南約1キロの曽我遺跡(大和高田バイパスと曽我川の交点)は玉作工房で、相当の規模であったと考えられます(曽我遺跡はあらためて紹介)
曽我遺跡からさらに約1キロ南に忌部山があり、忌部氏の遺跡が発見されているそうです。
忌部山は、大和三山・橿原神宮のある畝傍山から西に約500メートルのところにある独立段丘。
(写真は忌部山を西から撮りました。山の向こうに畝傍山があります)
こうしてみてきますと、曽我川に沿って南北約2~3キロの一帯には忌部氏のこん跡が各所に残っています。
先日記事でも紹介していますが、曽我遺跡での玉作の最盛期は西暦500年代前後であることから、一帯で忌部氏が玉作をしていたのは古墳時代(後期)で、難波玉作部の時期より遅いと考えられます。
時期的には第26代継体大王(ヲホド王、北陸出身の大王)の時代に相当します。
曽我川流域の忌部氏(王権に付属する祭祀の一族でもある)の活動を通して、ヲホド王の動き、プレ飛鳥時代の王権や勢力の動き、を考えることができると思います。