はじめに
ひさしぶりに #十種神宝のこと。古代ヤマト王権の成立に深くかかわった #物部氏の氏神、石上神宮の神拝詞(しんぱいし、のりと)のうち、十種祓詞(とくさのはらへのことば)で唱える十種類の神宝のことです #式内楯原神社 #神宝十種之宮 #三種の神器
目次
本文
地元・大阪に生國魂神社(通称、生玉神社)があったことが、私の古代妄想が始まった理由のひとつです。
1)興津鑑(おきつかがみ)、2)辺津鑑(へつかがみ)、3)八握剣(やつかのつるぎ)、4)生玉(いくたま)、5)足玉(たるたま)、6)死反玉(まかるがえしのたま)、7)道反玉(ちがえしのたま)、8)蛇比礼(へみのひれ)、9)蜂比礼(はちのひれ)、10)品物比礼(くさぐさのもののひれ)
鏡、剣、玉、三種の神器の要素が含まれている ため、日本の秘宝、ワンピースといわれている。のかな?
その十種神宝の実物が祀られた 十種神宝社 があるという、式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)に参拝してきました(去年年末)
式内社(小社)。現在は神社本庁に加盟しない単立神社のため、式内・・・の名になっていると思われます。
御神紋は、なんと!三種の神器。
本殿は喜連(きれ)地区最古の建物。大型の一間社流造り(いっけんしゃながれづくり)。屋根の前方部が後ろに比べて長くなっているのが流造り。
17世紀(江戸期)初頭に建てられたものだそうです。
神宝十種之宮(かんだからとくさのみや?)
これが、あのお宝が納められたとされる神宝十種之宮。読み方を聞くのを忘れたんですが、たぶん『かんだからとくさのみや』でしょう。
宮司さんの奥さんと立ち話しましたが、奥さんも見ることは許されず、見たことはないということでした。
式内楯原神社に物部氏の神宝が残された経緯についてはWikiに書かれています。ビッグネームも登場しますが、ややこしいので番号を振っておきました。
要約、捕足)①石上神宮が信長公の焼き打ちに → ②神宝は持ち出されて所在不明に →③ 神宝を保護した者がいると秀吉公が聞き「生魂の森」に奉納 → ④慶応3年(1867年)お蔭参り(お伊勢まいり)の興奮の中「生魂の森」から持ち去られた → ⑤町の古道具屋の店頭に出されていたところを喜連の小林という人物が見つけ家に祀る → ⑥小林氏は喜連を去る時、神宝を浅井家(宮司さんの家)に預ける → ⑦浅井家も旧家増池氏に預ける → ⑧増池氏は昭和初年に楯原神社に奉納し「十種神宝社」の社殿を建立 → ⓽今里の庄司氏(石上神宮守護職の子孫)から石上神宮に返すよう頼まれたときも返さず
実は、⓽に登場する名の子孫が天理(石上神宮が鎮座)に在住していた私の大学以来の友人で、そのようなことが実際にあったと亡くなった大叔父さんがいつも興奮気味に話していたということを聞いてたんですが ほんまかいな!? と、聞き流していました。
久しぶりにWikiをみたらその名前が書いてあったのでびっくり。で、聞くと、どうも今里の人は当の本人らしく、それで参拝したという次第。
宮司さんにもお声がけしましたが、話したがらないのがアリアリでしたので素直に引き下がってきました。
さて、あのお社にお宝は?そしてそれはホンモノなんでしょうか?
・・・やっぱり謎です。笑
生國玉神社・生玉の森
喜連は古代水辺の環濠集落
式内楯原神社が鎮座する喜連は、古代の環濠集落で、地形的に難波宮と飛鳥京をつなぐおもしろい所にあり、あらためて、紹介したいと思います。
ちなみに、難波宮の近くに物部守屋(最後の宗主)の居館跡(鵲森宮、かささぎもりのみや)と現在地に遷座前の生国魂神社(八十嶋の祭祀場)があり、飛鳥の北方、石上(いそのかみ、天理市布留)には物部氏の軍事&祭祀拠点がありました。
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アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る(連載中)