まとめ
皇位継承の激しい争いは勝者と敗者を生みました。歴史の舞台から静かに消えてゆく敗者。#記紀 に登場しながら消えて行く #ツクヨミ(#月読)のイメージに重なります。鎮めのツールとしての#八尺瓊勾玉 を考察
目次
- 御所の玉(月読)、後宮の鏡(天照)、東宮の剣(素戔嗚)
- 歴史の舞台から消えた皇子たち
- 鎮めの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)★★★
- 影薄き月読(ツクヨミ)の解
- 大王の系図(飛鳥前期 欽明系図 更新版)
本文
御所の玉(月読)、後宮の鏡(天照)、東宮の剣(素戔嗚)
三種の神器のうち、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は「天皇(大王)または天皇が住まいする宮に帰属する」のではないかと、前回紹介しました。
このパターンで考えると、アマテラス・八咫鏡(やたのかがみ)は皇后の後宮(女宮)*1、
世を平らかにする統治のシンボル・草薙剣(くさなぎのつるぎ)は後継ぎの皇子の東宮、にそれぞれ帰属するということになります。
後者については、例えば、摂政・厩戸皇子(聖徳太子)や、大王に就かず大化の改新を進めたとされる中大兄皇子(天智大王)のように、実務は『その時点で』皇位継承者であった皇子(大兄、だいけい、おおえ)が行うことになっていたのでしょう(特に飛鳥時代)。
歴史の舞台から消えた皇子たち
『その時点』と書いたのは、たとえ皇位継承者であっても中大兄皇子のように(天智)大王になるのはレアケースであることを、史実が物語っています。
大海人皇子でさえも、暗殺寸前で吉野に逃げた後、壬申の乱(672)で勝ち上がり(天武)天皇になったほどです。その一方で、敗者の大友皇子(第39代弘文大王)は自害しました。
本当に過酷な話で、穴穂部皇子(誅殺)、古人大兄皇子(刑死)、山背大兄皇子(暗殺、聖徳太子の息子)、有馬皇子(刑死)、大津皇子(自害)は全員、命を落としました。(竹田皇子、草壁皇子も若くして妙な亡くなり方(暗殺?毒殺?)をしています)
大王(天皇)になれた人と同じぐらい、なれなかった人もいるのです。
どなたも一時は後継者と目されながら、時の権力争いで敗者となり、ついに煌めくことなく、歴史の舞台から静かに退場させられました。
その姿は、紀記(日本書紀・古事記)で『影薄く、しかし忘れられないように』描かれている月読命(月読尊)のイメージに重なります。
鎮めの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)★★★
皇子たちの無念はどれほどのものだったでしょうか。
皇位継承者であった方々の無念は、古代において、強力な『怨霊』、タタリ神として怖れられたことは想像に難くありません。
では、誰が、どのようにして、そんな強い霊を鎮めることができるのか。。。解決策はひとつしかありません。
最高の天運に恵まれて天皇(大王)になった者が、『唯一無二のモノ』で強大な怨霊を鎮めることです。
唯一無二のモノこそが八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)で、ゆえに大珠で、御所の重要な所に置かれて(埋められて?)奉斎(たてまつり・いつきまつり)された(されている)のではないかと思います(太玉敷、ふとたましき)
影薄き月読(ツクヨミ)の解
この記事(シリーズ)の着想は、崇峻大王の息子・蜂子皇子のことを調べていて。
お父上の崇峻大王が暗殺され、次に命を狙われた蜂子皇子(542-641)は、いとこの厩戸皇子の計らいで大和を脱出し、後に山形(庄内)で、能除大師(のうじょだいし)として出羽三山信仰の開祖となりました。
調べてみますと、山麓の羽黒山、山腹の湯殿山、山頂の月山という様式ですが、個人的に、出羽三山信仰の核心は(奥宮の)月山神社だと考えます。月山神社の御祭神は月読命(つくよみのみこと)。
なぜ蜂子皇子は、多大な苦難と労力をかけて標高二千メートルに近い山頂に、あれほどの社を造営し、月読命を祀ったのか。
天に煌めくことなく、あるいはお父上のように煌めき続けることを許されず歴史の舞台から消えた数々の無念を弔う、深い慈しみと哀しみがその原動力であったと思わざるを得ません。
月の兎を眺めるように、大阪から遠い月山山頂に思いをはせる次第です。
(毎年9月中旬に閉山。今年は無理なので、来年、お詣りできればと思います)