はじめに
舒明天皇陵からの細い道を進むと、忍阪山(外鎌山)のふところ #奥の谷。鳥のさえずりが聴こえるだけの、心静かに散策できるところ #鏡王女
目次
本文
舒明天皇陵から続く山道を進むと、忍阪(おっさか)の奥の谷。
鏡王女の万葉歌碑と忍阪墓
小さなせせらぎの中に、鏡王女(かがみのおおきみ)の万葉歌碑。
鏡王女は、近江の国、鏡王の娘で、額田王(ぬかたのおおきみ)の姉とされます。
姉妹そろって中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)の側室に召されたとき、皇子への返歌とした詠まれたものだそうです。
秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそ益さめ 思ほすよりは
(あきやまの このしたがくり ゆくみずの あれこそまさめ おもほすよりは)
(あなたが私を思ってくださるよりも、木の下を潜り流れる水のように、ずっと深く思ってますよ)(案内板)
ここからが奥の谷。
春の鳥のさえずりがきこえるだけ。
少し進むと、鏡王女の墓。(鏡王女忍阪墓)
新緑の中の紅一点。
優しい色合いの桜の花が目印でした。
ここは宮内庁ではなく、地元の方々が管理しているそうです。
乙巳の変(おっしのへん、大化の改新)の盟友、中大兄皇子と藤原鎌足の間にどういうやりとりがあったのか…
つまり、藤原氏の祖で、記紀の編纂にも深く関わった、藤原不比等(ふひと)のお母さんということになりますが、異説も根強くあります。
王女の享年は683年(年齢としては五十代と考えられますが)、案内板には、死の前日、天武天皇(第40代)が見舞ったという日本書紀の記述が紹介されています。
天武天皇は、王女がかつて愛した中大兄皇子(天智天皇)の息子・弘文天皇を、壬申の乱で自害に至らしめた歴史の勝者で、鏡王女は敗者側の関係者のひとりと見れなくもないですが、
後の、奈良〜平安時代の藤原氏の隆盛を考えると、敗者とも言い切れない、面白い組み合わせです。
#鏡女王忍坂墓
— 開物発事 (@Kai_Hatu) 2023年4月8日
万葉の歌人 #鏡王女(かがみのおおきみ)が眠る #奥の谷 で聴く春のさえずり pic.twitter.com/eSf8cLCA0g
鏡王女の墓のあたりが、奥の谷。
万葉世界を絵に描いたようなところです。
大伴皇女墓
さらに進むと、大伴皇女墓(宮内庁管理)