はじめに
三輪から伊勢へ。#豊鍬入姫(とよすきいりひめ)と #倭姫(やまとひめ)。二人の #姫巫女 の #元伊勢の旅 を振り返ります。#八咫鏡 #御杖代 #大和姫命世記
目次
本文
豊鍬入姫(とよすきいりひめ)元伊勢の旅
崇神天皇の代まで、同床共殿(どうしょうきょうでん)といって、宮中にアマテラスとオオクニヌシを祀っており、主に姫巫女(ひめみこ)が奉祀する伝統でした。
しかし崇神天皇(第10代)はこれを畏れ、皇女の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)にはアマテラスが新しく鎮まる場所を探すよう命じます(日本書紀・崇神六年)
祭政一致の時代、神威によってヤマトを統治していた天皇にとっては切実な問題で、若き豊鍬入姫は、重い責任と御神体の八咫鏡(やたのかがみ)を負って長い旅に出ます。
倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)檜原神社(大和国)を皮切りに、摂津→大和→丹波→大和→紀伊→吉備→大和(推定)を転々とします(地図は比定地も含む。旧跡地は除く)
豊鍬入姫の元伊勢の旅は、いつ、どこで、どのようにして終わったのかは、正確にはよくわかりません。
倭姫(やまとひめ)元伊勢の旅
第11代垂仁天皇の第四皇女・ヤマトヒメ(倭姫)は、御世二十五年(250年ごろ~)は、トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)の後に斎王(さいおう)の責を引き継ぎ、アマテラスが鎮座するのにふさわしい地を求めて、あらためて三輪を立ちました。
最後に伊勢の皇大神宮(内宮)に至るまで、長い元伊勢・巡幸の旅です。
倭姫が天照大神を奉じて(つまり八咫鏡を持ち)各地を巡幸し(御杖代、みつえしろ)、伊勢に鎮座するまでの旅は『大和姫命世記(やまとひめのみことせいき)*1』(書写本、伝承)に残されています。
大和→伊賀→近江→美濃・尾張→伊勢。
■ヤマトヒメの木面(岩見沢三山神社、太々神楽)サムネイル写真の右上
倭姫の元伊勢の旅は、ヤマトの国の朝の日が出ずる伊勢国の、清涼な五十鈴川の上流で終わります。
(日本書紀・垂仁二十五年三月条)是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國-この神風(かむかぜ)の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)*2の可怜(うまし)*3国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ
倭姫は、実質的な初代の斎宮(さいぐう)として、アマテラスに奉祀し、その一生を、伊勢で終えたと伝えられます。
倭姫については、宮内庁の治定(じじょう)墓はなく、宇治山田陵墓(尾部古墳または尾上御陵、三重県伊勢市倭町)が「参考地(想定地)」とされています。
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伊勢内宮・御神体の八咫鏡が、平原弥生遺跡(福岡県糸島市)から出土した大鏡と同種・同サイズ(大型内行花文鏡(太陽紋鏡)*4、直系46.5センチ、重量約8キロ)であったならば、二人の若い姫巫女にとって、とんでもなく重いものを背負っての長旅だったことでしょう。