ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【三輪から伊勢へ】二人の姫巫女 元伊勢の旅【アマテラスの遷座】ざっくり解説

はじめに

三輪から伊勢へ。#豊鍬入姫(とよすきいりひめ)と #倭姫(やまとひめ)。二人の #姫巫女 の #元伊勢の旅 を振り返ります。#八咫鏡 #御杖代 #大和姫命世記

目次

本文

豊鍬入姫(とよすきいりひめ)元伊勢の旅

崇神天皇の代まで、同床共殿(どうしょうきょうでん)といって、宮中にアマテラスとオオクニヌシを祀っており、主に姫巫女(ひめみこ)が奉祀する伝統でした。

しかし崇神天皇(第10代)はこれを畏れ、皇女の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)にはアマテラスが新しく鎮まる場所を探すよう命じます(日本書紀崇神六年)

祭政一致の時代、神威によってヤマトを統治していた天皇にとっては切実な問題で、若き豊鍬入姫は、重い責任と御神体八咫鏡(やたのかがみ)を負って長い旅に出ます。

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倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)檜原神社大和国)を皮切りに、摂津→大和→丹波→大和→紀伊→吉備→大和(推定)を転々とします(地図は比定地も含む。旧跡地は除く)

豊鍬入姫の元伊勢の旅は、いつ、どこで、どのようにして終わったのかは、正確にはよくわかりません。

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豊鍬入姫の元伊勢の旅(Wikiの情報に基づき開物が地図にプロット)

倭姫(やまとひめ)元伊勢の旅

第11代垂仁天皇の第四皇女・ヤマトヒメ(倭姫)は、御世二十五年(250年ごろ~)は、トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)の後に斎王(さいおう)の責を引き継ぎ、アマテラスが鎮座するのにふさわしい地を求めて、あらためて三輪を立ちました。

最後に伊勢の皇大神宮(内宮)に至るまで、長い元伊勢・巡幸の旅です。

倭姫が天照大神を奉じて(つまり八咫鏡を持ち)各地を巡幸し(御杖代、みつえしろ)、伊勢に鎮座するまでの旅は『大和姫命世記(やまとひめのみことせいき)*1』(書写本、伝承)に残されています。

大和→伊賀→近江→美濃・尾張→伊勢。

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倭姫の元伊勢の旅(Wikiの情報に基づき開物が地図にプロット)

■ヤマトヒメの木面(岩見沢三山神社、太々神楽)サムネイル写真の右上

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倭姫の元伊勢の旅は、ヤマトの国の朝の日が出ずる伊勢国の、清涼な五十鈴川の上流で終わります。

日本書紀・垂仁二十五年三月条)是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國-この神風(かむかぜ)の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)*2の可怜(うまし)*3国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ

倭姫は、実質的な初代の斎宮(さいぐう)として、アマテラスに奉祀し、その一生を、伊勢で終えたと伝えられます。

倭姫については、宮内庁の治定(じじょう)墓はなく、宇治山田陵墓(尾部古墳または尾上御陵、三重県伊勢市倭町)が「参考地(想定地)」とされています。

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伊勢内宮・御神体八咫鏡が、平原弥生遺跡(福岡県糸島市)から出土した大鏡と同種・同サイズ(大型内行花文鏡(太陽紋鏡)*4、直系46.5センチ、重量約8キロ)であったならば、二人の若い姫巫女にとって、とんでもなく重いものを背負っての長旅だったことでしょう。

アラハバキ解39)見えてくる弥生稲作・太陽祭祀の東遷

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平原弥生古墳(福岡県糸島市)伊都国歴史博物館の大鏡レプリカ

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倭姫(Wikiより)

*1:平安時代末から鎌倉時代に成立。神道五部書の一。

*2:一方が山で一方が海(川・水域)

*3:美しい、素晴らしい

*4:大陸には同サイズのものはなく間違いなく国産鏡と考えられます