はじめに
三輪から伊勢への #元伊勢の旅 は #豊鍬入姫 と #倭姫 の二代の姫巫女によって行われました。#魏志倭人伝 などが伝える #倭国大乱 を基準にすると二人の旅した時代の国内の様相は少し違います #箸墓古墳 と #ホケノ山古墳 をセットで考えると。。。#出雲伝承 #土師氏
目次
本文
三輪から伊勢へ天照が遷座する元伊勢の旅は、前期の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)の旅と、後期の倭姫(やまとひめ)の旅に分かれます。
二姫の異質な元伊勢の旅
何分にも古い時代のこと、史料も少なく個人的な意見に過ぎませんが、豊鍬入姫と倭姫の旅は、目的がそれぞれに異質であるように思えます。
簡単に言うと、豊鍬入姫の旅は政治的、倭姫の旅は後の斎宮の伝統につながる祭祀的な意味合いが強かったのではないかと推理しています。
魏志倭人伝等(中国の史料)に準拠すると、豊鍬入姫の元伊勢の旅は 倭国大乱(推定西暦150~190年頃の出来事) *1に近い、遅くとも直後の時代に行なわれ、倭姫のそれはその少し後、ヤマト王権が再安定期に向かいつつある時代の話であると考えていることによります。
祭政一致の時代、ヤマト王権の神威である三輪山の太陽信仰を、豊鍬入姫の姫巫女祭祀を通じて、内乱直後の新たな対抗勢力となり得る吉備や丹波に、送り込んだのではないかと考えています。たぶんに政治的(政略的)という解釈はそういう意味です。
簡単に言うと、豊鍬入姫は敵地になり得る土地に乗り込む旅、倭姫は友邦国への遷座・巡幸の旅、というイメージでしょうか。
ホケノ山が豊鍬入姫の陵墓とすると箸墓古墳の主は?★★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
ここで、先日の記事に戻ります。
中間の堂ノ後古墳は未発掘で謎に包まれていますが、その墳丘も含めて、地元では豊鍬入姫の陵墓と伝承されるホケノ山古墳と、箸墓古墳の各墳丘中心はひとつのライン上に並びます。
つまりセットの祭祀空間として三古墳は築造されたと考えてよいかと思います。
よって、アマテラスの御杖代となり元伊勢の旅をした二姫を並べたと考えれば、箸墓古墳は倭姫の陵墓 と考えることもできます。
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箸墓古墳は宮内庁によって孝霊天皇(第七代、欠史八代 の一人)の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめのみこと)の陵墓に治定(じじょう)されていますが、治定墓は考古学的に否定されるものも複数あり(例:継体天皇の今城塚古墳[治定=三嶋藍野陵]、文武天皇の中尾山古墳[檜隈安古岡上陵]など)絶対的に正しいものではありません。(当ブログで「今城塚古墳」「中尾山古墳」で各検索いただくと過去記事)
一方、垂仁天皇(第十代)の皇女・倭姫の陵墓に関しては、推定地が伊勢(宇治山田陵墓=尾部古墳)とされていますが、確定したものではありません。
個人的に、倭国大乱(推定西暦150~190年頃)の渦中にあったと考えられる孝霊天皇の皇女であれば、箸墓のような初期型(纏向型)前方後円墳の築造の時代(西暦250~270年)には、少なくとも50年ほど早すぎると考えています。
また、ホケノ山古墳が豊鍬入姫の陵墓であるならば、元伊勢の旅の時代から離れた倭迹迹日百襲姫がセットで埋葬される理由がみつからないというのもあります。
倭迹迹日百襲姫=倭姫なら、話はすごく簡単なんですがね。
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出雲伝承では、箸墓古墳はアマテラスへの信仰が篤かった倭姫のために土師氏が築造した陵墓とされています。
「箸」は「土師」に由来し「土師氏が造った墓」と言う意味で『箸墓』になったと伝えています。
土師氏は古墳時代を通して、今でいうゼネコンのような一族でした。(このシリーズいったん終わり。また新情報が入り次第アップします。)
アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る(全54話完結)
【2020年12月~2021年5月、連載完結】