はじめに
個人的に #唐古・鍵遺跡(紀元前200年~西暦200年)~ #纏向遺跡(西暦200~400年)の時代を #ヤマト創世記 と呼んでいますが、それらを俯瞰できる地図を作ってみました #神浅茅原 #倭笠縫邑 #鏡作郷 #黒塚古墳 #鏡作坐天照御魂神社
目次
本文
ヤマト創世記の『点』を繋ぐ黒塚古墳
個人的に、唐古・鍵遺跡(紀元前200年~西暦200年)~纏向遺跡(西暦200年~400年)の、日本史の中でも、特に謎の多い時代を ヤマト創世記 と呼んでいます(弥生時代後期~古墳時代中期)
ここ数日にわたって取り上げている 黒塚古墳 は、
②鏡作郷(かがみつくりのさと)、倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)
との関連性がそれぞれに推理することができる 奈良盆地南東のヤマト創世記の空間 に含まれます。
ちなみに、東西に約5キロ離れた黒塚古墳(中心墓域、34度33分36秒) と鏡作郷の中心・鏡作坐天照御魂神社(鳥居、34度33分40秒)は、ほぼ同緯度(1秒は南北・約31m差)
地図中央部の田園地帯は、ヤマト創世記の時代、古代大和湖が浅くなり(あるいは消失直後)、おそらく潟や湿地帯が広がり、水辺には茅やススキなどが生い茂る浅茅原(あさぢはら)*1で、古墳群や倭笠縫邑、鏡作郷は、その周囲に分布しているのがわかります。
現在でも桜井市茅原(ちわら)の地名は残っています
奈良盆地で向かい合う御所市にも、修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)の生誕地として知られる茅原(ちはら)があります。
大和国・神浅茅原(かむあさぢはら)
檜原神社(地図右下)の御由緒には、日本書紀崇神天皇七年条を引用して、古い時代には一帯が 神浅茅原(かむあさぢはら) と呼ばれていたことを紹介しています(御由緒最終段落)。
摂津国・笠縫の島
摂津笠縫の郷、深江稲荷神社(大阪市東成区)一帯は、古代の難波潟の水辺・笠縫の島があったところとされ、笠縫の子孫が江戸期に、茅の仲間である菅(すげ)を栽培し、すげ笠を生産していたことを紹介しました。
笠縫と浅茅原は切っても切れない縁 のようです。
下の地図の左(西)側の半島状が、古代上町半島、現在の大阪市内を縦貫する上町台地です。
話を再びヤマト創世記に戻しますが、もう一度地図をご覧ください。
鏡作郷を示した円のすぐ右側に弥生時代の唐古・鍵遺跡(紀元前200年~西暦200年)が見えます。
古墳時代(前期~中期)に栄えた纏向遺跡(西暦200年~400年)は、地図右下の箸墓古墳あたりです。
地図に見える唐古・鍵からは 弥生時代の銅鐸工房 が検出されています。
隣接する鏡作郷は古墳時代の話であり、両者をダイレクトに結びつけることはできませんが、
その近さゆえに 製銅技術が弥生時代の銅鐸づくりから古墳時代の銅鏡づくりへ継承された可能性 が十分に考えられます。
伊勢内宮に似た神殿があったと推定される唐古・鍵の(王権)文化は、古墳時代直前に突然のように、地図右下(南東)の箸墓古墳周辺の纏向(まきむく)に移動します。
そして、畿内ヤマタイコク説の舞台である纏向は、河内で巨大古墳が次々と築造される*2ようになる古墳時代中期の直前に、これまた突然、廃絶します。
ヤマト創世記の歴史とともに、笠縫・鏡作・古墳群の『点』が、複雑に絡み合った『線』として浮かび上がってきますが、それらを丁寧にひも解いてゆくことで、わが国の謎の古代史に光を当てることができると信じています。