はじめに
学術論文のようなテーマになってしまいましたね😀日本書紀 #垂仁天皇 #野見宿禰 のよく知られた話から、#宝来山古墳 が垂仁天皇陵ならば、太陽方位を共有する#富雄丸山古墳 の被葬者は!?
目次
本文
奈良盆地北西の「トミ」伝承地エリア
富雄丸山古墳(古墳時代前期末、西暦紀元四百年前後)から、大陸も含めて他に類例がなく銅鏡としては世界最大の盾形銅鏡と、同じく世界最大2.37㍍の蛇行剣が出土したニュースに触れて、
ヤマトの古代豪族と前方後円墳の空白域である富雄川一帯、特に東の奈良市側を何度か歩きました。
ヤマト(弥生後期〜古墳時代)では、主要河川源流の水利権の支配が、古代豪族の力の源泉(食料生産力と物流能力)であるにも関わらず、富雄川エリアは考古学的にも判然としていないからです。
「トミ」に関連する史跡
とりあえず、菅原天満宮、登彌神社、宝来山古墳(垂仁天皇陵)を巡り、周辺の地形や景色も含めて見て回りました。
なぜこの3ヶ所に集中したのかというと、古墳時代のこの頃、一帯が「トミ」と云われたこん跡がそれぞれに残る所だったからです。
「トミ」は、古代河内を支配した「登美」一族の「トミ」であるとともに「鳥見」とも書きます。
宝来山古墳(垂仁天皇陵)については、富雄丸山古墳とほぼ同時期に築造されたことと、古墳と埴輪造りの土師氏(後の菅原氏)の発祥地・菅原天満宮近くの前方後円墳であったことが主な理由です。
菅原天満宮の由緒には、日本書紀にも書かれている、垂仁天皇と野見宿禰の有名な話(埴輪づくりの起源)
私が親しむ出雲伝承(口伝)では、野見宿禰は、本来「トミノスクネ」と読むと紹介されています。
野見宿禰は出雲人ですが、やはり出雲を祖とする「登美」一族とは同族であったと考えています。
奈良盆地には野見宿禰伝承が桜井市出雲〜巻向山〜纏向(まきむく)などに残りますが、桜井市の外山(トビ)には、「トビ」一族に関わるであろう桜井茶臼山古墳、鳥見山の等彌神社(とびじんじゃ)があります。
纏向には垂仁天皇の纒向珠城宮伝承地。
(当ブログ「野見宿禰」カテゴリーで検索)
(奈良盆地北西の「トビ」は、当ブログ「消された河内の古代史」、桜井市の「トビ」は同「ヤマト創世記」「原始三輪山」で各検索)
富雄丸山古墳と宝来山古墳(垂仁天皇陵)の太陽方位の共有(同伴性)
富雄丸山古墳の被葬者については、今後の調査研究報告が楽しみですね。
私としては、富雄丸山古墳と宝来山古墳(垂仁天皇陵)の太陽方位の共有関係(同伴性)を指摘しておきたいと思います。
宝来山古墳が宮内庁治定の通り垂仁天皇陵であるとしたら(その可能性は限りなく高いと考えています)、太陽方位を共有する富雄丸山古墳の被葬者は…
野見宿禰!?🤩
ただそうなると、桜井市出雲、龍野(兵庫県)、出雲にそれぞれ存在する野見宿禰の墳墓との整合性を考える必要があります。
「同伴している」という意味では、「皇后」であった 太陽祭祀の姫御子(ヒメミコ)(最初の皇后・狭穂姫(さほひめ)、二人目の皇后、日葉酢媛(ヒバスヒメ))である可能性も高いです。
これだから古代妄想は止められません😀
2月16日追記
国内主要史跡の太陽方位を計算するサイトを紹介いただきました。
宝来山古墳(垂仁天皇陵)の冬至の日の、日の出(赤)と日の入(青)の方位。
宝来山の起点が、古墳の前方部に設定された計算のため、冬至の「日の入」方位(青)は、富雄丸山古墳(円墳)の墳頂中心から少し南にズレて表示されています。
「後円部中心の墓域」を起点に計算すれば、富雄丸山の墳頂中心を通ると思われます。