二つの鳥見山。ひとつは「とりみやま」、ひとつは「とみさん」
神武大王の 祀りの庭『鳥見の霊畤、とみのれいじ』があったと伝えられている鳥見山。
日本書記で伝えられるその所在について、二説があります。
● 現在の墨坂神社と川筋(近鉄大阪線)に対面する鳥見山(とりみやま)(奈良県宇陀市)
さて『どちらだったのだろう?』という話になると、
私は、奈良県桜井市の鳥見山(とみさん)だった可能性が高いと考えています。
【考察】鳥見の霊畤(とみのれいじ)は桜井市の鳥見山(とみさん)★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
そう考える理由を挙げておきます。
1)何より、鳥見山は、御神体『三輪山』の南側に位置し、実際、山頂の『鳥見の霊畤』の碑がある所は、三輪山をほぼ真北に遥拝する位置にあること
2)また桜井市外山(とび)(外山区、とびく、とも云う)という、考古学的にさらなる調査研究が必要な『特別な』エリアの中心にあること
例えば、外山には、墳丘長207メートルの最古級(西暦300前後)の前方後円墳「桜井茶臼山古墳(または外山茶臼山古墳)」があり、国内最多の推定81枚の銅鏡とともに、玉類や剣が同時に出土(≒三種の神器)しているものの、埋葬者不明の 大王(もしくは女王)級の墳墓 があります
他にもあります。
3)最初の地図にある墨坂神社(宇陀市)は、神武大王(神日本磐余彦、かむやまといわれひこ)が神武東征の最終段階・ヤマト入りの局面で「敵軍が坂に”いこり炭”をまいて防戦した」という話があり、ここから「墨坂」の地名になったのですが、神武大王がヤマトに降り立った地は「磐余、いわれ」とされており(現在の)桜井市・鳥見山の西側一帯を指すと考えられます。
つまり、宇陀市の墨坂では東に寄り過ぎています。神武東征神話で云われるところの『敵軍』が、桜井市の鳥見山周辺で防戦したと考える方が、地理的には合うように思います。
さらに、
4)墨坂神社は『天野』から遷座した話があり、具体的には、かつての宇陀市の榛原天の森から現在地(天野)に遷座した(1449年)と伝えられています。
これに関連して、遷座より古い飛鳥時代の話ですが、桜井市の鳥見山にも、似た伝承があります。
鳥見山の南約5キロに談山神社(多武峰)が見えますが、その南に『冬野、ふゆの』という明日香村の大字があります。村史には『皇極天皇の夫だった舒明天皇は、はじめに冬野の天野(てんの、てんのう)という場所に葬られたのち、翌年に押坂陵に改葬された』と書かれています(明日香村の大字に伝わるはなし、146ページ)
この経緯を二番目の地図に描いておきました。押坂陵は鳥見山のすぐ西隣です。
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古い時代に付きものの、少しややこしい話ですが、この時代・この地域の考察を進めてゆくことで、神武東征(神話)、さらには、ヤマタイコク(古代日本の外交史)などの「史実の面」に迫れるかも知れないと考えています。
二番目の地図に赤い字で書き込んだ『鳥見(とみ)』『外山(とび)』『等彌(とみ)』。
等彌神社の御神紋は『輝く鵄(トビ)』。御神像は『ヒトガタのヤタガラス、八咫烏』。どちらも熊野からの山道をヤマトに導いたシンボルです。
繰り返される『とみ・とび』の語感。そこからひとつのぼんやりとしたイメージを抱きながら、他に繋がりそうな「点」を探しています。