古代、大王(おおきみ)が高い所にあがって『国見、くにみ』できる範囲がクニと考えられていました。
『ヤマトのクニ』の主要な舞台は、おおよそ、周囲を山に囲まれた大和盆地(大和平野)。
飛鳥時代、甘樫丘(あまかしのおか)からの『国見』が万葉集にも収載され有名ですが、この時も、東の三輪山、西の二上山はランドマークになったことでしょう。
話はそれますが、おそらく、甘樫丘からの視界では、斑鳩の背後の山稜から向こう側を『山の背後』、転じて京都方面を山背(やましろ、のちに山城)と呼ぶようになったように思います。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かもめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は(万葉集1-0002)(作者:舒明大王)
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先日、日本書記の崇神紀(第10代)に『疫病を鎮めるため、赤盾八枚、赤矛八竿を墨坂の神に祀り、黒盾八枚、黒矛八竿を大坂の神に祀る』とあり、墨坂神社(奈良県宇陀市)と大坂山口神社(奈良県香芝市)がそれぞれ比定されると紹介しました。
現在では、この記述をもとに、古代ヤマトのクニの範囲を、東の宇陀市から西の香芝市あたりと考えるのが定説なのでしょうか。
そのあたりはよくわかりませんが、私は、宇陀市では、東に広過ぎると考えています。
甘樫丘からの視界では、墨坂、あるいは、その北の鳥見山(宇陀市、とりみやま)はランドマークになりません。
やはり『東の三輪山、西の二上山』とする方が、国見っぽくてわかりやすいですね。
檜原(ひばら)神社は、三輪山の麓、大神(おおみわ)神社の境外末社。
奥明日香の入谷(にうだに)大仁保神社の展望台から大阪方面。