ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【始まりの元伊勢・倭笠縫邑】三輪山のふもとから二上山を臨む【檜原神社】

f:id:Kaimotu_Hatuji:20200331172746j:plainf:id:Kaimotu_Hatuji:20200331175015j:plain
檜原神社 奈良盆地を見下ろす西向きの鳥居、境内

f:id:Kaimotu_Hatuji:20200331174559j:plain

同床共殿(どうしょうきょうでん)

初期のころの、天皇家(ヒメ・ヒコ)は皇祖としての天照大御神(あまてらすおおみかみ)を宮中(皇居)でお祀りしていた。

そのような、神様と「同じところで寝て、ともに住まう」スタイルを『同床共殿』といった。

第十代・崇神天皇の御代(210年ごろ~)、日本書記には以下の記述がある。

● 三年、磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)に都をうつし、(磯城三輪山の西の麓?)

● 五年、疫病が流り、大半の人が死亡した

● 六年、世が乱れ、これを天皇の徳(祭祀)をもっても治まらず、天照大御神(以下、アマテラス)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の二神を宮中の外に出すことにした

倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)

アマテラスは、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと、初代の斎王)に託され、宮中を離れ、はじめに檜原神社のある「倭笠縫邑、やまとかさぬいむら」に「磯城神籬、しきひもろぎ」を立ててお祀りされた。

*神籬(ひもろぎ)とは、祭祀を行う臨時の神の依り代(よりしろ)となる場所。

f:id:Kaimotu_Hatuji:20200331175311j:plain
檜原神社境内 倭笠縫邑の看板

f:id:Kaimotu_Hatuji:20200331174850j:plain
三鳥居の檜原神社本殿

f:id:Kaimotu_Hatuji:20200331172828j:plain
本殿正面、西の鳥居、鳥居の遥か向こうに二上山(にじょうざん)

本殿正面、西の鳥居から奈良盆地を見下ろす。

奈良盆地の先、ほぼ正面に、雌岳・雄岳の二上山(にじょうざん)を臨むことができる。

檜原神社(倭笠縫邑)のポジションは、二上山と深いかかわりがあると考えるのが自然だろう。

f:id:Kaimotu_Hatuji:20200331172807j:plain
西の鳥居下の案内板

豊鍬入姫命の後、第十一代垂仁天皇二十五年(250年ごろ~)、第四皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が斎王を引き継ぎ、アマテラスが鎮座するのにふさわしい地を求めて大和を出国し、最後に伊勢の皇大神宮(内宮)に至るまで、長い巡幸の旅に出る。

巡幸の地、一時的に鎮座した場所(伝承地を含む)を、元の伊勢という意味で『元伊勢』という。

ゆえに、檜原神社は最初の元伊勢ということになる。

前回の記事

www.zero-position.com