同床共殿(どうしょうきょうでん)
初期のころの、天皇家(ヒメ・ヒコ)は皇祖としての天照大御神(あまてらすおおみかみ)を宮中(皇居)でお祀りしていた。
そのような、神様と「同じところで寝て、ともに住まう」スタイルを『同床共殿』といった。
第十代・崇神天皇の御代(210年ごろ~)、日本書記には以下の記述がある。
● 三年、磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)に都をうつし、(磯城=三輪山の西の麓?)
● 五年、疫病が流り、大半の人が死亡した
● 六年、世が乱れ、これを天皇の徳(祭祀)をもっても治まらず、天照大御神(以下、アマテラス)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の二神を宮中の外に出すことにした
倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)
アマテラスは、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと、初代の斎王)に託され、宮中を離れ、はじめに檜原神社のある「倭笠縫邑、やまとかさぬいむら」に「磯城神籬、しきひもろぎ」を立ててお祀りされた。
*神籬(ひもろぎ)とは、祭祀を行う臨時の神の依り代(よりしろ)となる場所。
本殿正面、西の鳥居から奈良盆地を見下ろす。
奈良盆地の先、ほぼ正面に、雌岳・雄岳の二上山(にじょうざん)を臨むことができる。
檜原神社(倭笠縫邑)のポジションは、二上山と深いかかわりがあると考えるのが自然だろう。
豊鍬入姫命の後、第十一代垂仁天皇二十五年(250年ごろ~)、第四皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が斎王を引き継ぎ、アマテラスが鎮座するのにふさわしい地を求めて大和を出国し、最後に伊勢の皇大神宮(内宮)に至るまで、長い巡幸の旅に出る。
巡幸の地、一時的に鎮座した場所(伝承地を含む)を、元の伊勢という意味で『元伊勢』という。
ゆえに、檜原神社は最初の元伊勢ということになる。