ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【倭姫】の墓と伝えられる旧蹟地【千田の御池】

はじめに

志摩国一ノ宮 #伊雑宮(いざわのみや)から北に #倭姫命旧蹟地。大正年間に楠の根本から墳墓の天井石とともに鏡や勾玉が出土。しかしその事実は官憲に封じられたと地元有志の案内板は伝えます #千田の御池

目次

本文

倭姫(やまとひめ)の元伊勢の旅

倭姫(やまとひめ)は、第11代垂仁天皇の第四皇女で、御母上は日葉酢姫(ひばすひめ)。

倭姫像(鳥羽市立海の博物館)

豊鍬入姫(とよすきいりひめ)*1の後を受けて、アマテラス(八咫鏡)が鎮座する地を求めて長い旅(巡幸)をし、最終的に伊勢の地に定めました。

その故事より倭姫は初代の斎宮(さいぐう)とされています。

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倭姫命旧蹟地

(34.3814514, 136.8102477)/志摩市磯部町上之郷441/伊雑宮より北に徒歩5分(伊雑宮までは近鉄上之郷駅より徒歩3分)

志摩国一ノ宮・伊雑宮(いざわのみや)から北に徒歩5分、先日紹介した 上之郷の石神さん に行く途中に、倭姫の埋葬地とも伝承される倭姫命旧蹟地。

倭姫命旧蹟地

案内板)千田寺跡の西側にある雨露にさらされた楠の切り株のもとに、自然石のタテ4メートル、ヨコ3メートル、厚さ50センチの天井石が掘り出されていて中央が割れている。大正末期のことであった。この大楠が樟脳(しょうのう、衣類の防虫剤)用に伐り倒された。根元を掘ったところ、この天井石があらわれ、その下から鏡や勾玉などが出てきて、これは倭姫さんの遺蹟ではないかということになった。その頃、イセ微古館の近くに倭姫命を遥拝する神社が建設中であった*2。この掘り出された鏡などは持ち去られ、この地の鑑定は官憲に封じられてしまった。それは六十年前のことであった。里人は言う。倭姫命の遺蹟であろう。千田寺を建て遺影を慰め、楠を植え、樟宮の霊所としてきた。

倭姫命 旧蹟地

倭姫命 旧蹟地 天井石

千田(ちだ)の御池

案内板)上之郷上の里に千田のみ池さんがある。倭姫さんがこの地で真名鶴(まなづる)が一茎千穂の稲穂をくわえ飛び鳴くのを奇瑞となされ、稲を天照大神さまに献ぜられ、この地に引水田と苗代を造られたという。この地を千田の御池といい、今は十坪ほどの窪んたところとなっていて、注連縄がめぐらせてある。

千田の御池

案内板にもある通り、千田の御池は、今は単なる窪地ですが、ここは、後の時代に、聖徳太子持統天皇が訪れた所とも伝えられています。

このあたりの伝承(歴史)は、そばの伊雑登美命(いざわのとみのみこと)の社も含めてあらためて紹介します。

*1:奈良県桜井市檜原神社は豊鍬入姫の墓をホケノ山古墳と伝える。https://www.zero-position.com/entry/2021/08/08/170000

*2:1922年(大正11年)、倉田山(伊勢市倭町)に、内宮別宮の倭姫宮が創建され倭姫命が祀られるようになった