はじめに
忍阪街道を少し歩くとこぢんまりとした御神域の祠。#玉津島明神 は稚日女尊(わかひるめのみこと、丹生都比売神)ともう一柱、本朝三美人の一人と称される #衣通姫(そとおりひめ)が御祭神
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玉津島明神
(34.5074479, 135.8726839)/奈良県桜井市忍阪/近鉄大阪線・大和朝倉駅から徒歩約20分。県道166号線から忍阪集落に入る。忍坂坐生根神社(おっさかにいますいねじんじゃ)より徒歩すぐ
御祭神:稚日女尊(わかひるめのみこと、丹生都比売神)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと、軽大郎女、衣通王)
ここ忍阪(おっさか)の地名は、かつて意柴沙加、意佐加、於佐箇、押坂など古代史を多彩に彩り、神話の「記・紀」ともに神武天皇東征の折、「忍阪の大室(おおむろ)」としても登場します。また隅田八幡宮(すだはちまんぐう)所蔵の人物画像鏡の銘文にも「意柴沙加」の地名が見え、大和の地名を刻む最古のものです。稚日女尊(わかひるめのみこと)は、伊弉諾尊(いざなぎ)、伊奘冉尊(いざなみ)の御子で、天照大神の妹神とされ、後世またの御名を丹生都比売神(にふつひめのかみ)と申されます。
古事記では(允恭天皇の)皇后・忍阪大中姫の御名代として刑部(おさいべ、忍阪部)を定めたと記録され、この忍阪の地に宮があったことを証しています。第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう、在位412〜453)と忍阪大中姫との間に第五皇女・衣通姫(そとおりひめ、軽大郎女、かるのおおいらつめ)は、この地で生まれ、以って字「生谷(いくだに)」として今に残り、そのとき使ったとされる「産湯の井戸」がここにあります。
衣通姫(そとおりひめ)
記紀ともに衣通姫は絶世の美人といわれ、その美しさは衣を通して輝いていたことから名付けられ、本朝三美人*1の一人とも称されています。また和歌三神の一つとして和歌浦・玉津島神社に祀られるのは同一ともされています。古来より村人は女子誕生にこの井泉を産湯として使ってきたと伝わり、この伝承地とされるところから、井戸の石積み跡が見つかり、悠久の年月を経て蘇っています。
神社というにはこぢんまりしていますが、手入れの行き届いた御神域の清々しさが印象的。
終わりの椿は華が落ちても美しく、伝説の美しい姫神を想い起こさせてくれます。
姫の歌と哀しき伝説
衣通姫が詠んだ歌の愛しきお相手は…
衣通姫が詠んだ歌として「夏草の あねの濱の蠣貝に 足踏ますな あかしてとおれ」(古事記)「君が行き け長くなりぬ山たづの 迎へを往かむ 待つには待たじ」(古事記、万葉集巻二−九十)「我が夫子が 来べき夕なり 小竹が根の 蜘蛛の行ひ 今宵著しも」(日本書紀巻十三)
しばらく眺めていたら、雲間から、つかの間、朝の光が射し込んできました。
【道ならぬ恋に落ちた兄妹(姉弟)の哀しき伝説】